九. 「蟷螂さん」 自分でも分かるほど、安心したような声が漏れた。 彼女の陰鬱で、かなりの焦りを含んだ声から喚起された想像よりも――目の前の彼は、随分ましだったのだ。 ただ、手にある手当て後が――目に付く。 「手、どうかしたんですか?」 「爪がはがれた」 「……痛い、ですよね」 「痛かったな」 「何があったんですか」 「人を殺した」 「……それは」 「比喩ではない。冗談でもない――そのままの意味で、受け取ってくれ」 人を殺した、と繰り返し呟かれる。 「そうですか」 自分は、その言葉を嘘だなどと受け取らなかった。 そもそも蟷螂は嘘など吐かない――本当の事を言わない事は、間々あるけれど。 彼は人を殺したらしい。 そうなれば狂犬の言葉とも上手くかみ合うし、きっと――事実なのだろう。 そして事実と認識した上で、自分は動揺しなかった。 少しだけ、それが誇らしい。 「蟷螂さん――ここを、出ましょう」 「その話は――この間も、したはずだ」 「ええ、わかっています――でも僕は納得できませんでした。だから、またお願いしています」 「お願い?」 「ええ。誘いじゃありません――お願いですから」 ここを出てください。 身を乗り出すようにして、そう言う。 「……ぬしは、どうしてそこまで、私を外に出したがる。ぬしには悪いが――私は外の世界にも、自由にも、魅力を感じない。だから――ここを出た方が幸せなどとは、言われても困る」 「その方が貴方の為だとか、そんな事は――もう言えませんよ」 怪訝な表情だった。 蟷螂の為――それは己の言い訳だ。言い訳で、照れ隠しだ。 「僕が、貴方と一緒に居たいから――僕が貴方を好きだから、お願いしてるんです」 蟷螂の顔を見ることは、出来なかった。 「――出来ない」 冷えた声は、自らの体に響き渡る。 「……っ」 「ぬしの言いたい事はわかった――私が好きなら、ここに来たらいい」 来て抱くでも何でもすればいい、淡々と、蟷螂は言った。 瞬間、頭の中が真白に染まり、気がつけば己は蟷螂を押し倒している。 「貴方は、貴方は僕がこういう事をしても何も思わないんですか!」 「言っただろう。抱くでも何でもすればいい――金を払ったぬしには、その権利がある」 拒絶の色は何もなく、しかしその許容こそが――何よりの拒絶で。 超えられない一線がそこにある事を、痛感する。 熱くなった感情が凝縮して、雫になって流れた。 「蜜蜂」 「僕の思い、何て――貴方にとって、全然、特別なんかじゃ、ないんですよね――」 悲しい。悲しい。悲しい。悔しくって辛くって、嫌で嫌で嫌で、とても愛しい。 彼の薄い胸板に、顔を押し付けて、最後に言う。 それでもぼくはあなたがすきです。 |