八. 手が痛い。 その痛覚だけが、自分がこの世に居ることを示しているようだった。 他は、溶けてしまったかのように、存在の証が無い。 「大丈夫か?」 聞きなれた、安心できる声だった。 安堵の導くまま「私が殺した」と言った。 男の声はしばし止み、それから「混乱しているのか」と結論を出す。 ここに至るまで何をしたのか。 さんざ騒がれ、助けられ、沢山問われて、その度何もわからないと返し、漸く開放された。 そして、男の前に居る。 「私が殺した。あの男が、憎いと思った」 「……それで人殺しになるならば、この世は人殺ししか居なくなるな」 「そうか。赤子はどうだ?」 「赤子だって憎いと思う時もあるだろう。泣き叫ぶ様など何かを憎悪しているとしか我には思えん」 「ならばぬしは?」 「我は終始誰かを憎いと思っている」 「私の事もか」 「おぬしの事か? さあ、長い付き合いだから、一度ぐらいはあるかもしれんな」 「今、憎んで欲しい」 「?」 「憎んで、一度殺してくれ」 声は再び沈黙して「死んだらちゃんと生き返るのだろうな」と念を押し、頷くと首筋に手を掛けた。 少し力は入ると、脳が鬱血してくるのがわかる。当てられた指の位置で、心臓の音が聞こえる。 ああ苦しいなと思ったところで手が離れた。少々名残惜しかったものだから、掴んだ。 「死んで気分は晴れたか」 「ああ、曖昧だ」 「それは肯定なのか否定なのかどっちだ」 「……ともかく、すまなかった――鳳凰」 「誤魔化したな」 笑い声が聞こえる。 やはり安心した。 自分は、どうやらここにいるらしい。 「……こんな仕事、辞めてしまえ」 「主人の言う台詞ではないぞ」 「こんな仕事はこんな仕事、だ」 「辞めてどうする」 「どうにでも出来る」 「楽観だな」 「おぬしのは悲観だ」 「楽観よりもましだろう」 「悲観では進めぬ事もある」 「楽観で進んでも挫けるだけだ」 「挫けたらならば立ち上がればよいだろう」 「それも、楽観だ」 掴んでいた男の手が、逆にこちらの手を掴んでくる。 「……どちらにしろ、しばらくは働けんぞ」 「ああ、この手ではな」 「あの男を殺す意味がわかっても、おぬしの爪をはがす意味が分からない」 「だから言っただろう、私が殺した」 「おぬしは刀など持っておらぬだろう。男の喉笛には刀傷があったそうだぞ」 障子の向こうから、男を呼ぶ声があった。男はそれに応えると、暫く考えるような間をとってからこちらに聞いた。 「……蜜蜂が来ているそうだが、どうする? 蟷螂」 ああ、私の名前は蟷螂と言うのだったか。 「会おう」 そこで漸く己の存在を理解して、しかし納得できないままに、肯定した。 |