十五. 「――かる張頑」 今日は気分が明るい。 神様は、中々粋な夢を見せてくれた。 まあ、神なんて信じていないけれど、それはそれだ。 馴染みの客を相手にする。 気分一つで、こんなに全てが楽になるとは思わなかった。 中々いい調子だ。 大丈夫、まだ大丈夫。 少なくとも他の客と相対している間は。 結論の先延ばし――愚かしいのは、重々承知。 どうせ昨日来たばかりだ、あの男は来ないだろう――とそこまで考えて。 もう来ないと言っていたか、と思いだした。 来ないらしい。 来ないのだ。 よくわからないけれど、当主になるという事は、こんな所に来ている暇はないという事なのだろう。 道楽してられる時間は終り――か。 仕方がないだろう、自分にとっては仕事でも――男にとってはただの遊びなのだから。 自分にとっては本気でも、男にとってはただの気紛れなのだから。 仕方がない。 わかっている。 なのにどうして悲しいのだろう。 何を喋っているのかわからないままに、会話をする。 それでも客は嬉しそうで、もしかしたらこれが自分の天職なのかと思ってしまった。 計算が超越しすぎている。 突然――がらり、と戸の開く音。 店の者でも来たのか何の用だろう――と顔を上げると、驚いた事に奴だった。 宇練銀閣――だ。 眠たそうな顔で、やる気はなさそうで、表情も格好もいつもと同じなのに、何故か違和感があった。 なんだろう。 男を構成していた要素がかけている、気がする。 「っ!?」 困惑している自分や客の事など全く気に留めず、座っていた自分の腕を引っ張りを無理に立たせた。 「よだ何っ」 「来い」 少し抵抗してみると、「許可は取ってる」と付け足される。 一体何の許可だ。そして一体誰の許可なのだ。 だけれど腹立たしさより喜びの方が大きかったのは紛れもない事実、で。 廊下を引っ張られるままに歩く。 この廊下を歩いたことはない――これは客用の廊下なのだ。 外へと繋がる通路なのだ。 外の――世界へと。 途中で鴛鴦に行き会った。 宇練銀閣はただ「連れて行く」とだけ言って、言われた彼女も驚いた風がない。 何が何だかわからなかった。 「着物――ま、いっか。あたしからの餞別って事にしとこうか」 そう言うと鴛鴦はゆるやかに手を振った。 まだらな色の髪の毛が揺れて、その顔に影を作る。 時折その影が泣いているように見えるのが、何故だか酷く切なかった。 「らなよさ、鷺白」 綺麗な声は吸い込まれるように耳に入り、残響を残していく。 響きによって心が細波立てられ、涙が零れそうになるのを堪えた。 彼女の顔をこれ以上見ているのがつらい。 「――さよなら」 それは多分、全てへの別れの言葉だったのだ。 外へと出た瞬間、一番に気になったのは空の広さだったかもしれない。 区切られた四角い空なんかじゃなく、ただただ広大な、青色。 正直、区切られた空の方が美しかったけれど。 一面に存在する青色は、何だか開けてくる物を暗示しているようで。 「っていうか何が起こってんだよ……!」 世界に見とれている間にもずんずんと足は進んでいるし、正直掴まれている腕が痛い。 前に居る男に精いっぱいの文句を言うと、振り返りもせず返答された。 「買っただけだ、単に」 「買った? 何をだよ!?」 「この状況で他に買うものがあるのかね」 振り返らない。だから声が聞こえづらい。 「……俺?」 「そうだよ」 この男そんなに金持ってたんだろうか――という可愛くない計算の方が先に出て。 結局、理解不能に、落ち着く。 「何で」 「……お前、そんな野暮で良く春何か売れたもんだな」 「仕方ないだろ、普段は計算何だよ――」 溜息が聞こえる。 「お前が欲しかったんだよ」 ――その言葉について思考する前に。 何でこいつさっきから顔見せてくれないんだろう、とか思って。 もしかして照れてるのかもしれない、と思って。 とりあえず―― 「っ……ははっ」 「……何笑って――」 浮かんでくる感情に、つける言葉を自分は知らない。 「――笑いながら泣いてんじゃねえよ……気持ち悪いな」 「え?」 ああ何だ、自分は泣いているのか。 泣いている割に視界は随分良好だ。 ようやく振り向いた男の顔がよく見える――と、そこで。 感じ続けていた違和感の原因に気が付いた。 「――あんた、刀、どうしたんだよ」 いつも、寝る時さえ、腰に刺さっていた刀が無い。 男は視線をそらすと、何でもないことのように言った。 「売った」 「はい?」 「売ったっつったんだよ――何度も言わせるな」 「いや――あれ、大切だったんじゃ、」 「俺の家には大切だったみてーだな」 「あんたも至極大事に持ってたろ」 「そうだな――毒が回ったのかも知れない」 「意味わかんねえ」 「ああそうかよ――中々、高く売れたがね」 「……俺を買えるぐらいに?」 「お前を買えるぐらいに」 ああ、何だか――理解した。 要するに自分は勝ったのだ、多分。 「家には戻れねーだろうな」 別に戻りたいわけじゃねえんだが、と男は一人ごちる。 「大切な刀、売ったんだもんな」 「何でそんな嬉しそうなんだよ……にしてもお前、今日は普通に喋るんだな」 「ん? ああ、」 もう必要なくなったから、と言うと男は何も言わなかった。 「あーあ。何だよ。いいとこの坊ちゃんからただの無職かよ」 「そりゃ悪かったな……嫌なら来なくていいが」 「やだよ。ばーか」 少し歩く速度を上げて、男の隣に並んだ。 掴まれていた腕が放されて、代わりに体をくっつけてみる。 「宇練――ああ、もう宇練じゃないのか。銀閣。銀閣――」 「何回も呼ぶな」 「あんたに伝えとく事があるんだけどさ」 「……言わなくてもいい」 「何で」 「お前が言ったら俺も言わないといけなくなるだろーが」 そこまで言われて。 「俺、あんたが好きだぜ」 「……てめえ」 裏拳で軽く殴られた。 そのまま頭を掴まれて、引き寄せられる。 「好きでもないのに生意気な白髪頭買ってやるほどお人好しじゃねえんだ、俺は」 笑みが零れる。 だけど突如――仲間達の事を、思い出して。 自分だけこうでいいのかと――本気で思って。 それでも消えない幸福感に、涙が出た。 「……っめん、な」 隣の男に聞こえないように、口の中だけで呟く。 聞こえないはずだったのに――軽く頭を叩かれた。 幸せになっても、いいですか。 問いかけに答えは帰って来ずに、それこそが解答なのだとすぐに分かる。 自分で考えて自分で決めて、自分で責任を――とって。 罪悪感も幸福感も、何もかも自分の物で。 「銀閣」 「……何だよ」 「幸せだぜ、多分」 「多分なのか」 与えられた人生の重みは骨を軋ませる程だったけれど。 同時にその重みは望んでいたものでもあって。 「幸せ、だよ」 だからもう、涙は流さない。 纏 っ た 過 去 に 寄 せ る 唄 |