十.



蜜蜂には、母と呼べる存在が居ない。
母と呼ぶべき存在はいたが、母と呼べる存在はいなかった。


自分を生み育てたその人は、母である前に女であり。
女である前に、雌だった。

沢山の愛を囁かれ、大部分は子供に与うるには少々濃すぎる告白で。
その内に気がついた事は、どうやら自分はその人の夫――要するに自分の父に似ているらしいという事。
その人は自分に夫を投影し、子供を愛す名目で、夫を愛した。
頻繁に合わせられる唇は艶やかで、いやらしく、誘うような。

その人に愛される自分の顔が嫌で嫌で、長く髪を伸ばした。
今でも少し、自分の顔を見るのは嫌だ。






蟷螂と別れた帰り、いつもならばなるべく聞かないようにしている、店の中の音が鮮明に聞こえてくる。
否が応でもここがそういう店なのだと理解を諭してくる、卑猥で淫猥な音。
母と呼ぶべき存在を思い出す、獣のまぐわう音。




潔癖な年頃の娘でもないのに、吐き気がした。





「……失恋、か」




自分の思いが彼に、届かないと言う事。
届いて拒絶されたのなら仕方がない――ただ、それすらなくて。



言葉が足りないのか。
所作が足りないのか。

愛を囁く事も表す事も、自らの苦手とするところで――否。




嫌悪の対象だった。





「………………」




思いが通じることを信じていた。
例え叶わなくとも、通じさせることぐらいは――出来ること。

言葉が上手く通じない事を痛感する。
自分と彼の生きる世界はそんなにも違うのか。
彼にとって自分は、異邦人より更に別の人種なのだろうか。


それでも、異邦の者とだって――言葉が通じなくたって、心を通わせることぐらい、出来るだろう。
少なくとも自分は出来ると信じていた。

言葉はそんなに確かで、そんなに大事な物か。
思いよりも重要視されなければならないのか。






なら、自分は今まで一体何を信じてきた。






「……違うか。これも、言い訳、か」




感情に理屈をつける癖がついてしまっているな、と苦笑しようとして笑えない。
そうなる理屈があるから感情が発露するのか、感情があるからそれに理屈をつけるのか。
それは卵が先か鶏が先かを問うようなものだ。
それぐらい、どうでもいい。




「いつだって貴方は、」


僕と違う世界に居るんだ。





それは誰に向けた恨み言なのかわからなくて、強いて言うなら運命のようなものにかもしれなかった。



最初に見つけたのは幼少の頃。
次に見たのは舞台の上。





いつでも彼は飾られているが如く遠くにいて、自分の胸に強い感情を残すのだ。