十七.






特別でもなんでもない、ありふれた日の夜の事だった。
訪れる客で賑わって――とはいかないが、それなりの雑踏の中、である。





「じ、準備――出来ました、か?」
「ああまあ――十全だぜ?」





重たい、華美な着物は脱ぎ捨てて。
ふざけた装束――形容するならしのび装束とでも言うしかないのだろう、そんな物を見につけて、いる。
しかしなんと言うか、その妙な衣服はまるで着慣らしたかのように、肌に馴染んだ。




「い、行きましょう」
「はいはい」




適当に返事をして、少年の背中についていく。
戸を開くと心地よく、冷たい風が髪を揺らした。
外界特有の匂いが、香っている。




「ぼ、僕は――人鳥、です。蝙蝠さま」




よろしくお願いしますね、と言った少年の瞳に映るのは、どちらかと言えば警戒のそれだった。
警戒というか――敵意というか。
どうにも好かれてはいないようだったが、そんな事には慣れているので余り気にしない。


「よろしく」



笑って自分は、世界から、逃げ出した。
逃げ込んだ時と全く同様に、人に頼りながら。





* * *








「貴方は疑っていいのですよ、今のまま。私の事を疑って疑って疑って疑って、自分でも疲れるぐらいに疑って、試して騙して裏切ってみてください」










あの時、喰鮫はそう、自分に言った。
飄々と、なんでもないことのように、笑いながら、勝ち誇るように、単に誇るように――次の言葉を続けて。






「――その度に貴方は、私が嘘を吐いていない事、痛感させられるだけなのですからね」









人を信じる事の大切さを教えられたことがある。
自分の事だけでも信じてくれと、懇願されたことがある。



どちらも笑って誤魔化した。



だから今も、自分は笑う。





「お前に、俺を店から出させてやって、愛されてやって、ついでに介護もしてやればいいわけ?」
「別に介護はいりませんけれど」
「やだよ。こっちに有利条件がほしい。飽きられた時に俺だけ損するの嫌だし」
「あくまで計算なのですね――いいと思いますよ、そういうの」
「きゃはきゃは、契約ってそういうことだろ――だから、」






お前は俺を裏切るなよ、と言った。
自分は何時だって裏切られる側ではなく、裏切る側だというのに。





「約束してさしあげますよ。裏切りませんから」
「まあ――それでも疑っちゃうのが俺なんだけど、な」





信頼が大事な事ぐらい、わかっている。
信じられる事が嬉しい事ぐらい、知っている。
信じられない事が哀しい事も――了解していて。

だから、信じられない自分が嫌なのだと、理解した。







「契約に必要なのは信頼ではなく利害の一致です」



喰鮫は簡単に言ってみせる。
割り切ってみせる。



そんなに自分が好きなら、精々利用してやると、妙な気分になって――





「契約成立?」
「ですねえ」
「繰り返すけど、俺お前のこと別に好きじゃねえよ?」
「その分私が好きですから何の問題もありません」
「そういうもんか」
「そういうものです。さて、海亀に頭を下げるか、それとも人鳥に頼むか――どちらにせよ、よろしくお願いします」
「契約なんていつ破棄するかわかんないけどな――って何でお前そんな楽しそうなわけ?」
「これで存分に貴方を愛せるからに決まっているじゃありませんか」
「……あ、そ。まあ好きにしちゃえよ」




きっつくなるぐらい俺を愛してみろ――と言うと、腕の力が強くなったような、錯覚をした。



自分はこの男が好きなんかじゃなくて、この男の言う好意を少しだって信用していない。
利用するつもりだし、疑わしくなったら容赦なく裏切る自覚はある。



それでもいいと男は言う。




だから惚れたとか、そんな事は全然、ないけれど。
好きなんかじゃ全然、ないけれど。
そんなに信じてくれたのはお前だけだとか、寒い言葉を言うつもりも――ないけれど。





「よろしく」





とりあえず自分の中の何かが緩んだような外れたような気分がして。
喰鮫の事は何ともいえないけれど、ここまで愛される自分は実はそこまで悪人でもないのかも知れないと思った。
そのうち、自分の事が好きなれる――そんな予感がする。
まあそんな予感すら、思いあがりだと、言ってしまうのだけれど。































花 に 許 さ れ た 笑 ふ 行 為
(正論何て説かないでとっくにわかってるから、)(正論に悉く外れる自分はこうするのが一番なの、さ)





-了-