かんかんかん、とテンポ良く階段を上る音がする。
そしてその音に偽りなく、今正に、一人の少女が階段を上っているのだ。
マンションの6階という、階段で登るには少々長い道のりだったが、少女はエレベーターを使う事が出来なかった。
それは別に、少女は背が低くてボタンに手が届かなかったという使い古されたオチがあるわけではなく――単に、ボタンが押せなかったからに他ならない。
何故なら、少女の両腕はマントの下にあり。
マントの下には、拘束衣を着用していたからである。


少女のは匂宮理澄(十六歳・学生)。名探偵をやっている、ごくごく普通の女学生である。
普通の女学生は拘束衣の上にマント着ないとか、名探偵などやっている時点でアウトだとか、そういう事はつっこんではいけない。


兎に角理澄は階段を上っていた。
彼女の兄に会いに行く為である。
少々息を切らしながら――それでも口元は微笑んだまま――理澄は6階に到着した。


いつもなら出迎えてくれる兄は何故か居ない。
しかしこれは推理小説特有の死亡フラグなどではなく、単に理澄が兄に今日の訪問を告げていないだけなのだ。
そもそも兄が理澄の訪問を知っていたならば、玄関で待ち構えて、一緒にエレベーターに乗ったはずである。
実のところ理澄にはさしたる目的もなく、ここに寄ったのは、ただ近くを通ったというだけだったのだが。
それだけでふらりと足を運び、その上6階まで階段で上がる辺り、兄妹の仲の良さを伺わせる。





621号室――兄の部屋の前に来た理澄はインターフォンを押そうとして、出来なかった。
当然である。

頭でぶつけてみても良かったのだが、以前勢い余って壊してしまったことがあるのだ。
兄は怒りはしなかったが、いや理澄が怪我をしかけたことで寧ろインターフォンの方を怒っていたが、理澄は反省していた。
だから今度は、ドアに体をぶつけてみる。
五感の鋭い兄は、すぐ気が付いてくるだろうと――そう思ったのだけれど、反応がなかった。


理澄が可愛らしく小首を傾げ、体を曲げて何とかノブを捻ると扉が開いた。
一般的にはここで嫌な予感を感じ取ってもいいのだが、基本的に理澄の兄の部屋の鍵はいつでも開いている。
無用心なのではなく、用心の必要がないのだ。




「兄貴ー? 入るんだねっ」




玄関口から宣言してみるものの、やはり返答はない。

靴はあるから部屋にいる可能性が高いが、兄ならば裸足でも平気で出て行きそうな気もした。
とりあえず靴を脱いで上がりこみ、真直ぐ進んでリビングに当たる部屋に向かう。
理澄用に扉が取っ払われていて、申し訳程度に布で区切られた部屋。

突進する形で布を潜り抜け、そこで理澄は。





「あに、き?」




倒れている兄。
自分とそっくりな姿。
ただ、自分との決定的な違い。
弱いとか強いとか、男とか女とかよりも、もっと絶対的な違い。


彼女は生きて、そしてその場に立ち尽くしており。




兄――匂宮出夢は、どくどくと。
血を流して、倒れていた。





* * *








「理澄ちゃん、大丈夫なの?」
「大丈夫なんだねっ」


そう言った彼女の笑顔はいつもと何ら変わらなかった。
しかし少しばかりやつれたようだ――とでも描写すればそれらしくなるのかもしれないが、やつれた様子もない。
いつも通りである。
大丈夫だという言葉を、鵜呑みにしてしまいそうだった。



「出夢君は――どうして」



理澄ちゃんは笑顔で、説明してくれる。
出夢君は、後頭部を殴られていた事。
凶器は灰皿だった事。
力が強すぎた余り、その灰皿は割れてしまっていた事。
血が出ていたそうだ。
当たり前かもしれない。
うつぶせに、右手は何かを掴むように、頭の横に伸ばされていて、左手は体の隣に横たわっていた。
全体を、血に浸していたそうだ。
手の指の先まで、ぐっしょりと。



警察には、言っていないと言った。





「ていうか――少し意外、だよね」




ぼくは言葉を選びながら、そんな理澄ちゃんに話しかける。




「出夢君が、そんな呆気なく、灰皿で殴られたとか、まるで」



使い古された手段。昔のメロドラマみたいだった。
何と言うか――ベタだ。



「だねっ」
「だねって理澄ちゃん……」
「だからあたしはお兄さんを呼んだんだねっ」
「だねって理澄ちゃん」
「この事件は、あたしが解決するんだねっ」
「だねって――理澄ちゃん」



「出来るのかい」と聞くと、「あたしは名探偵だよっ!」と元気な答えが返ってくる。



「じっちゃんの名にかけて!」
「それはお祖父様が有名だった場合にのみ使いなさい」
「はうっ! なら兄貴の名にかけて!」


ならって言ったよこの娘。
前から思ってたけど、理澄ちゃんはキャッチコピーの類に執着しない娘らしい。


「この手の事件は、情報収集が物を言うんだね」
「おお、さすが名探偵」
「基礎基礎っ。シャーロックホームズにも、ホームズさんが突然資料を出してきていきなり事件が解決する話があったんだねっ」
「それは小説としてどうかと思うけど」
「探偵小説は推理を楽しむ小説じゃないんだね、お兄さん」
「言うじゃないか理澄ちゃん。なら何を楽しむんだい」
「投げて楽しむんだねっ」
「世のミステリファンに謝れ!」



と、そういうやり取りの後、理澄ちゃんは「協力して欲しいんだね、お兄さん」と言った。



「その、情報収集をかい?」
「ううん。それは名探偵のお仕事」
「なら何をだい?」
「支えて欲しいんだねっ」
「………………」




理澄ちゃんは、にっこりと笑った。

支えて欲しい、と。

兄の事件を解決するべく立ち上がった名探偵は、笑う。

まるで純粋無垢。
まるで傷つかない。



「――それぐらいならお安い御用だよ、理澄ちゃん」




そして今日も状況に流されるぼく。




「大好きっ」





言われた言葉はどうしてか、胸に響いた。



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