音楽家はアイリスを囁く

 本日晴天。そして昼下がり。暖かな春の風が街中を訪れているこの日、クラッシュクラシックは定休日だった。
 地下にある為、外の様子自体は窺がえないものの、一階からの通し窓から僅かに光が漏れている。店内がその仄かな光によって照らされており、普段と少し違って柔らかい印象を受ける。
 そんな、麗らかな午後。零崎曲識は、例によって店のテーブルで作曲活動に勤しんでいた。
 無論、今日は雇っている従業員はいない。一人きりのこの時間、新たに演奏する曲でも考えているらしく、黙々とペンを動かしている。
 五線譜の上でインクから生み出された音符たちが踊る。多様な姿形、そして背丈。一つの『曲』にするべくして滑らかにノートの上を行き来する音楽家の仕草は美しい。ほぼいつも通りの日常。今日もまた、彼はその日常を過ごしていた――筈だった。
 
 けたたましい音が聴こえた。見れば扉の蝶番が、何故かメキリという悲鳴を上げて壊れた。曲識は感情に乏しい顔に面食らったかのような表情をのせる。それは勿論、突然扉を破壊されたこともあった。しかしその事象は、彼にとってほんの些細な出来事に変化する。
「――よう、零崎曲識。お前の歌聴きに来たぜ」
 燃えるように、赤い。
「………哀川――」
「潤だっつってんだろうが。名字で呼ぶな」
 歪んでしまったドアから現われた人類最強は、長い脚を大股に広げてズカズカと曲識の元へ歩いてきた。そしていつも通りの無表情に戻った音楽家は、テーブルの上に散乱する紙を束ねる。とん、と紙の束を整えたのと同時に、赤い彼女は彼と丁度向かい側の椅子に腰を下ろした。
「………………」
「あん? 何だよ何だよ、お客様が入店されたんだから『いらっしゃいませ』くらい言え店長」
「…いらっしゃい、潤。それから今日は定休日だ」
「聞こえねーなぁ」
 わざとらしく首を振った後、土産だと一言付け加え、手にしていたバッグから単行本ほどの高さの瓶を取り出す。表面にシンプルな英語表記のラベルが貼られているそれが、今にも割れんとする勢いでテーブルの上に置かれた。
 曲識はおもむろに瓶を掲げるようにして持ち、中身をしげしげと眺めた。半透明の黄金色に輝く中身は、器が傾けば同じ方向へ緩やかな速度で溜まっていく。それを見届けてから曲識は、ふむ、と呟き瓶を戻した。
「蜂蜜か。悪くない」
「悪いとか言いやがったらぶん殴ってやるとこだっつうの。ちょっち仕事でイギリスに飛んできたんだがな、そこの専門店で買ったやつだ。高級なんだぜそれ。喜べ曲識」
 何故か威張って言う彼女。
 そう言いながらいつの間にか蜂蜜を舐めているので、土産の意味も何もなくなっているのだが。
「…僕への土産ではなかったのか」
「気にすんな。味見だよ味見」
「そうか。悪くない」
 特に指摘をするでもなく、曲識は彼女の手元へと視線を留めた。
 細い指だ。それが金の衣を纏って、彼女の口へ吸い込まれていく。彼女の象徴である赤色のルージュのひかれた唇が、指を包み。直後、金の衣を長めの舌が絡めとる。嗚呼、なんて艶かしい動作なのだろう。 
 急に気恥ずかしくなったらしい曲識はそこから眼を逸らした。悪くないと口癖を言いつつ、すっと席を立つ。反動で彼の随分と長いウェーブのかかった黒髪が揺れた。
「お、歌ってくれんのか音楽家」
「きみはそれで来てくれたのだろう。これでも客商売をやっているんだ、丁重にもてなすさ」
「んん、ちぃと納得いかねえなあ曲識」
 椅子から腰を上げた彼女は、ステージへ上がっていく曲識についていくようにその道を歩いた。ステージの前で止まり、そこに寄りかかるようにして頬杖をつく。曲識はステージの上、彼女はステージの下に居る様子である。
 ピアノに向かうところであった曲識は足を止めて振り返り、ステージの上から美しいものを見下ろした。
「何か不満か?」
「不満っていやあ不満だな。あたしはお前の歌が聴きたくてここに来たんだ。ただの『客』として扱いはヘコむってもんだぜ」
「ふむ、そうか――そうだな。すまない」
 素直に謝罪した曲識に、赤色はシニカルに笑う。そして彼女は仰々しく両腕を広げて、ハキハキと区切りよく、店内の隅々まで響かんとするかのごとく言い放つ。
「さあ! 零崎曲識。お前の声に心底聞き惚れているあたしに、音で歌で、ありったけの愛情を示してみろ! 今日はこの『哀川潤』の為だけに歌を歌え」
 この手で盛大な拍手を送ってやる、と。非常に甘美な台詞を続けて、挑発的に彼の才能溢れる音楽家を見た。
 一方の音楽家は、一瞬ぽかんと呆気にとられた顔をした。しかしそれでも彼は、口元を僅かに、ほんの僅かに綻ばせて「ああ」と呟き、
「今日は、お前の為に、僕の歌を捧げよう」 
 言った。瞳は生気に溢れている。
 曲識は、唐突に彼女の手を己の手に取った。女性特有の滑らかで自分より一回り小さい手を、長髪で顔が隠れている中、愛しげに見つめている。
 一寸の間が空いて、彼は赤いマニキュアの塗られている指先に、ゆっくりと唇を押し付けた。
「………………」
 ああ、甘いな。と、思った。
 体勢はそのままに視線を彼女に向けると、彼女はやはりシニカルに微笑んでいた。

 この気持ちが何なのかすら、今となってはさして気にはならない。
 きっとそれは、かつて自分が少年だった頃と、何ら変わらないものだということが、自分の中で何となくわかっているからで。そして名も無い少女だった彼女は、その眩いほどの赤色も、何もかもが変わりない。
 あの小瓶に詰められた糖度の高い蜜よりも遥かに甘ったるく、砂に染み込む水よりも、自分の心にゆるりと染み入っているそれ。
 エゴでも我が儘でももう何でもいい。ただ、今この瞬間にこそ伝えたいことを口にしよう。
 さあ、音楽の時間が迫っている。
 曲識は、美しい赤色の美しい指先に、彼女自身への言葉を紡いだ。
「――…潤」


 愛している。

 音楽家は、その唇で愛を囁く。
 





灰オクルの境さんから相互記念に頂きました!
大ブーム曲潤……っ! 曲←潤的要素に動悸が激しくなります不審者です。
ばっちで格好いい哀川さんにマジ惚れ。

ではでは相互ありがとうございましたv