黒く煌く白刃という、矛盾した物体。手にした感覚は朧である。闇とも無とも言える暗黒の視界の中で自分は立ち尽くしており、足元を濡らす赤黒い物体の持ち主は、

あろう事か金色の髪をしていた。




毒を知って呑下す/棘と知って花を摘む






「右衛門左衛門。聞いてるのかしら」


天井の下――いつも彼女の立っている部屋からの声。そんな客観的事実を認識するまでも無く、それは否定姫の声だった。世界の全てで、要するに世界である、自分を否定した女の声。
どうやら、少し意識が沈んでいたらしい。
意識の底にあるのは、むせ返るような赤い匂い。


「はい、姫様」
「ああそう。居眠りでもしてるのかと思ったけど、その推測は否定しておくとするわ。天井裏で寝れる人間の気持ちなんてわからないし。じゃあ、お願いね」
「あ――」


聞き逃しているはずがない、と思ったのだが、どうやら何かを言われていたらしい。不覚だった。
「申し訳ありません」と言ってから、再び命令を請う。
否定姫は「私の話聞き逃すなんて、あんたも大分それっぽくなってきたわね」と大いに笑って、それから何も言わなかった。



「あの――姫様」
「殺せるかしらと言ったのよ」


「誰をですか」の問いに「私を」と返答される。言葉につまったところでけらけらという陽気な笑い声が響き、からかわれたのだとようやく気がついた。



「否定するわ。真っ赤な嘘よ、そんなの。私まだ、死にたくないもの」
「――はい」



良かった、とただ純粋にそう思う。その思いを知ってか知らずか――いや確実に気付いてはいるのだろうが――否定姫は一際大きく笑って「ちょっと下りてきなさいよ」とそんな許可を出した。

いそいそと、階下、否定姫のおわす部屋へと急ぎ。
入ったところで、突きつけられた白刃に、軽い眩暈を覚えた。



「姫――様」



刃に合わせて、眉間の神経が反応するのがわかる。
刀の彼方、左右に見えて照準の合わない主は、それでも確かに笑っているようだった。
甘い微笑である。
赤い色が映えそうな、笑みだった。


少しだけ向きを変えられた切っ先に安心する暇もなく、それは首筋へと向かう。
ゆったりとした、優雅ですらある手つきで刃の表面が首を撫ぜ、僅か鳥肌が立った。
その冷たさは、今まで感じてきた死とは正反対の物ではあったのだが。


死というのは、生温いのだ。

例えば子宮の中は、ああいう心地がするのではないかと思うほどの温もりを帯びている。
それを知ったのは、自らがそれを疑似体験――否、完全に体験した時の事だった。


その死の生暖かさ、不愉快な受容を否定した主は、相応しい鉄の冷涼さでこちらを死に晒そうとしている。




「いや?」


柔らかい発音で、否定姫は尋ねてくる。
それが一体何に対する質問なのかはわからなかった。


「いいえ」


そうでもありません、と自分は即答する。
それはどの質問でも、同じ事だったからだ。



例えどの質問でも。
否定して、見せるだけ。



「ふうん」


力が篭る。切っ先は僅かに震えているようだが、それは別に躊躇だとか恐怖だとか、その手の感情を抱いているわけではないだろう。単純に、彼女の腕力では支えるのが困難なのだろう。日本刀は、重い。それは凶器の重みなのだと、誰かが言った。
腕は大丈夫だろうか、とそれが酷く気になる。
よろしければこれをお使い下さい、と幾分かは軽い、腰に刺さった小刀を指せば、さもおかしそうに笑われた。



「あんた、殺されたいの?」
「そういうわけでも――ありませんが」


彼女に殺されるのは、嫌だとか、そういう問題ではないのだ。
それは要するに世界に殺されるという事であり、事故死とか、病死とか、もっと単純に老衰するのと、同じ事。
そういう避け様もない広大な力に抱くのは、恐怖か羨望かのどちらかなのだろう。
自分がどちらなのかは、言うまでも無い。



首筋、皮一枚分が切れて――どくりと血が僅かに流れるのがわかる。


彼女は笑っている。
ならばいいだろう、と自分は動かない。


すう――と切っ先が引かれて。
まるで何でもない事かのように、否定姫は刀を畳に落下させた。




「――重たくて敵わないわ。全く。何させるのよ」
「申し訳有りません」



腕を振って、筋肉をほぐすような仕草。
刀が存在していた距離分だけ、一歩踏み出して近づいた。


「――っ」
「いたい?」


切れた首筋を指で撫でた否定姫は、傷口に容赦なく、爪を立てた。
抉られる傷口に、少しだけ歯を噛み締める。


「どうなのよ」

正直に言って見なさい、という命令だった。


「――痛い、です」
「そ」



一旦傷を抉るのをやめて、否定姫は反対の手で頬に触れてくる。


「死にそうでも平気みたいだし、痛くても我慢するし」



殺されないって自信じゃなくて、殺されても後悔しない自信って奴なんでしょうね――と一人ごちる否定姫。



「っ!」
「否定するわよ」


再び爪をつき立てながらの高らかな宣言には、主語が見当たらない。
それでも何となく――わかる気がするのは、不思議だった。
きっとそんなのは勘違いだと、一蹴されてしまうだろうけれど。




「あんたの覚悟なんて、覚悟じゃない」


そんな物は認めて何かやらないわ、と。
その一言だけが、何故か胸に突き刺さり。



「早く手当てしないと腐るわよ?」


声をかけられるまで見つめていた幻想を否定して――右衛門左衛門はただ、首肯した。