鬼籍不明の墓の前
珍しく、昔の格好で歩いていたのだ。昔というか――例の《同志》時代の格好で。 頭髪を撫でつけ、スーツを着込み(以前着ていた物は燃やしてしまっていたので新調した)、普段の格好では不釣合いすぎる時計をはめる。釘バットは放置し、そのまま外へと出た。 一体何を思ったのかはわからない。鬱陶しくて愛しい家族から、少し離れたかったのかもしれない。 だから目的なんて知らない、しかしそれでも町を歩いた。闊歩する度に響く靴音が懐かしい。いや、疎ましいのか。 そこそこの人混みの中、偶然自分の目の前に道が出来た。ああ何か幸先がいいのか、とらしくもない事を思った所で瞳をあげ、視界が黒い革靴とコンクリのモノクロから、極彩色の街へと移る。そこで、沈黙、した。 女が居た。見覚えがあった。嫌いな女だった。いや、どうでもよかったのかもしれない。少なくとも嫌な女ではあった。それでも――知っている女だった。女もそこで視線をあげ、こちらと視線が絡む。元恋人同士などというロマンスはそこにはない。どちらかといえば恋敵で、正確に言えば――同じ少女に恋をしていたと、それだけだ。同じ玩具同士であったと、それだけ。 「日中」 こちらの唇が音を紡ぐのと同時に、珍しく可愛げのある驚愕の表情を浮かべた女の唇は開かれた。音は街に喰われて届かない。ただ「しきぎ、」と動いたのだけは了解する。最後まで名前を紡ぐ前に、女の表情から驚きは取り払われた。いつもの、エゴイスティックな表情が回帰する。女は――日中涼は、悠々とした足取りでこちらに向かってきた。足音が、鳴り響く錯覚。 どうすればいい。何を言えばいい。そもそも何かを言うべきなのか。いや、大体―― 「――――、」 日中の足が眼前で止まる。最悪のエゴイストは、眉一つ動かさぬまま再び足を動かし、結局一言も言葉を交える事なく式岸の隣をすり抜けていった。その時唇が動いたような気がする。だが、やはり声は聞こえない。 * * * * * 「やあ式岸。酒を呑もう」 「やあじゃねえよ。十年来の親友みたいな押しかけ方してんじゃねえ。お前自分が何年ぶりの再登場かわかってんのか」 「何年ぶり? さすがにそれはいいすぎだろ!」 「俺の設定ではお前は十年ほど前に死んだ事になっている」 「俺設定かよ。ん? 十年前――あ、出会う前から死んでいたとかいうそういう話か。よし、酒を呑もう」 「何がよしなのかわからねえよ。というか何でお前俺の所に来れてんだ? まさかお前も偶然会ったとかいうオチじゃねえよな」 「お前も? それは俺以外にも偶然会った奴がいるって意味かい、式岸」 何が楽しいのか、にやにやと笑いながら兎吊木は言う。日中といいこいつといい、今日は会いたくもない連中やら思いだしたくも無い過去やらを見せ付けられる日なのか。一体どいつもこいつもどうした、と思ったが、今日に限って式岸軋騎の格好をしている自分も同類だと気がつく。 「二重世界に会った――いや、すれ違っただけか」 「へえ。偶然って重なるもん何だな」 「偶然だとしたらだがな。だから兎吊木、何でお前俺の居場所わかったんだ」 例えば家に押しかけていたなら(嫌すぎるのは前提として)まだわかる。だが、移動中に捕まえられるとは納得が行かない。 「まあ、偶然だ。或いは運命だな」 「どっちにしろご免被りてえ」 「そう言うなよ、式岸。いいから呑みに行こうぜ。付き合えよ」 「嫌だ」 「おいおい。俺がどうしてお前の目の前に現れたのかも教えてやるぜ?」 「――ったく。何だってんだ、今日は」 「命日さ」 疑問符を浮かべると、大仰に瞳を見開く兎吊木。それからまた、にやにやと笑った。気持ちが悪い。 馴れ馴れしげに回されそうになった腕を振り払い、連れ立って歩き始める。ああ、変な日だ。どいつもこいつも俺も含めて。 「やあ、街」 「……だから今日は何だってんだ……!」 安っぽそうな居酒屋に連れられるがまま入ると、滋賀井統乃が無表情に片手を上げた。もう一方の手には既に酒が握られているようである。最早描写するまでも無く、隣の兎吊木はにやにやと笑っていた。 「……説明しろ、兎吊木。滋賀井でもいいがな」 「何だ、害悪細菌。式岸は覚えていないのか?」 屍は淡々と言葉を紡ぐ。訝しげに眉を顰めていると、こちらを介さずに「そうなんだよ」と兎吊木が言った。 「いや、本能的には感じてるみたいなんだけどな? しかし自覚がないらしい」 「そうか。ある意味式岸らしい事だ」 「そうかもな。昔『俺はきっと一生この日を忘れないだろうよ』とか何とか言ってた気がするが、前振りだったか」 「何の――話だ、お前ら」 「まあとりあえず座れよ、」と店の概観に違わず安っぽい椅子を示され、不承不承腰掛ける。 隣に兎吊木も腰掛けて、早速酒を頼み始めた。 「君も飲むだろう、街」 「あ? そりゃあ飲み屋に来て呑まない馬鹿はそうそういねえだろうが……そんな事より」 「まさか、君が忘れてるとは思わなかった」 「今日は所謂同窓会さ」と隣で変態が嘯く声がする。 「同窓会? 同志のか」 「そう。領域内部のだ」 「一群以外に俺たちに繋がりがあるとすれば是非聞きたいところだな」 名称が一定しないから分かりづらいものの、何を指しているかはすぐにわかる。 「同窓会なんてする柄か――寧ろする仲かよ、俺達は」 卒業したというより、崩壊したのだ、例の集団は。 「ふむ――二重世界がいないことが悔やまれるな。あいつなら上手いコードチェンジが思いついたろうに」 「同窓会と言うか――一周忌、というのが正しいよ」 「ああ、なら命日で正解だったわけだ――」 「わけわかんねえよ、お前ら」 「覚えてないのか、一年前の今日」 手にしたコップがテーブルを滑った。液体がじわじわと広がっていく。右側から男の手が伸びてきて倒れたコップを元に戻し、女は淡々と、スーツが濡れていく様を見ていた。 「――あー」 「だから言ったろ、一回忌」 「同窓会さ、街」 「ちなみに俺がお前を見つけたのは、二重世界から連絡があったからさ。俺のパソコンが悪質なウイルスに感染してたから何事かと思ったら、日中涼だったよ。いや一群の誰かだとは思ってたんだけどね」 「彼女は昼間に既に行ったそうだ。綾南は知っての通りだし、他の連中の事は知らない」 「ああ、だから式岸、運転はお前に任せるぜ?」 「そうだな、飲み屋に来て呑んでいない馬鹿は君だけだ」 「……お前ら人をアシに使うな」 ああ、そうだ。 何で忘れてたんだろう。 ここは彼女の街じゃないか。 * * * * * 「なあ、滋賀井。式岸でもいいけどさ。俺の写真とってくれないか、マンションをバックに」 「何でだよ。記念にでもするつもりかお前」 「いや、綾南が同窓会に参加できなかったからさ。送ってやろうかと思って」 「それは物凄い嫌がらせだね、兎吊木」 兎吊木は携帯電話を取り出し、カメラを彼女のマンションに向けた。その際に見えた壁紙が筆舌に尽くしがたい物だった事はあえて無視しよう。ぱしゃり、と嘘くさいシャッターの音がして、彼女の居場所が携帯に写し取られる。 「ぼやけてるけど、いいのかい」 「滋賀井は女だからわからないかもしれないが、おっとこれは男女差別になるのかな? まあいいや、男って言うのははっきりと見せ付けられるより、少々ぼかして後は妄想で補う方が興奮する生き物なのさ。エロ本にモザイクがかかってる理由と同じだ。なあ式岸」 「同意求めるんじゃねえよ」 「どうしてるかなあ」と何気なく、兎吊木が言った。 それは全ての核心の台詞だった。この、一回忌だとか同窓会だとかいう、ふざけた名称の儀式における。 「幸せだ、間違いない」 滋賀井は即答する。確かに間違いは無く、そして間違いなどあってはいけないのだと思った。彼女は幸せでなければならない。そして、彼女は幸せなのだ。権利であり義務である幸福は、少年と共に彼女の元にある。 「なあ、提案があるんだ」 「却下だ」 「いや、聞くだけ聞けよ。俺は今すごく泣きたいんだ」 そういいながら、兎吊木は笑った。 「だからじゃんけんして、負けた奴が肩代わりで泣く事にしよう」 「お前が泣けばいいだろ」 「泣きたくないんだよ」 「矛盾しているね」 「出さんと負けもーんくーなーしっ」 反射的に手が出る。開かれた手のひらが二つ、握られた拳が一つ。 「式岸だな」 「式岸だね」 「……泣かねえからな」 突き刺さるような視線が飛んできていた。誤魔化すように、開いていた車の窓を閉める。腕を外に出していた兎吊木が、慌てて手を引っ込めるのが見えた。ガラス越しに、再び彼女の居場所を見上げる。 「式岸」 「うるせえ。大体泣けって言われてそんな直ぐに泣ける訳が――」 目頭が熱かった。空に限りなく近い部屋が、眩しい。錯覚なのだ。錯覚なのに、目を開けていられない。眉根に皺を寄せるように目を瞑ると、熱が目尻から頬へと伝達していく。 何だ結局泣くんじゃないか、と声が聞こえた。滋賀井の気のない拍手が鳴る。何の嫌味だ、それは。屍が動くな、と理不尽を思った。 「出すぞ」 アクセルを踏み込む。彼女の居場所から逃げるように、車は走った。ああだけど、彼女から逃げられる事などないのだ。彼女は空のように何処までも存在し続ける。そして、逃れられないのにも関わらず、彼女が追ってきてくれる事もまた、無いのだ。 「視界は良好なんだろうな。彼女ならともかく、お前らと心中するのはごめんだぜ、俺は」 「それは同感だね。いーちゃんとなら、心中してもいいかもしれないが」 「殺したいだけじゃねえかそれ。それに、俺もお前らと心中する気なんざねえから安心してろ」 「おい式岸、頼むからそういう台詞言わないでくれよ。前振りだったらどうするんだ」 「っ!」 ブレーキを踏み込んだ。前のめりになる。後ろの二人の体制が崩れたのがわかった。「おい、本気で前振りだったのか」と少しだけ焦ったような声が聞こえる。違う。目の前に飛び出してきた、女が居たのだ。 その女は何事も無かったかのように、助手席側に回って扉を開いた。 「同窓会なら僕も混ぜてくれ」 日中涼は清々しいほど堂々とそう言い切って、だから誰も彼女の目が腫れていた事に言及しなかった。 |