与えられた一時に、

「……幾ら夜とは言え、静かすぎはしないか?」
「え? ああ……今日は月食なんだそうですよ」






月の食われた日






任務の帰り道のことである。
いつもよりも格段に静まり返った村々を訝しげに見ていた蟷螂は、蜜蜂の答えに首を傾げた。



「げっしょく?」
「月を食べると書くそうです。任務に出る前に、狂犬さんが言ってました」



空を見上げながら言葉を紡ぐ蜜蜂。




「何でも、月が、赤黒く光ってるとか――あ、あれです。あの月」



指を刺した先には、確かに赤黒いと表現するに相応しい色の月――月には見えないが恐らく月なのだろう――がある。
二人は少しだけ足を止めて、その不気味な様子を眺めた。




「これを見て、天変地異の前触れだとか、月食が起こると悪い事が起こるとか――そう言う人も、いるみたいですよ」
「……実際にそうなのか?」
「いいえ。狂犬さん曰く、」



『ほっといたって月なんて毎日満ち欠けしてるじゃない。それが一日妙なことになったからってぎゃーぎゃー騒がないでほしいわよねえ。大体今まで随分生きてきたけど、月食日食の類と悪い事なんて全然関係なかったわよ』



「――だとか」
「らしい言葉だな……しかしまあ」



辺りを見回す仕草をする。




「この様子だと――信じている者も多いようだな」
「まあ、そうみたいですね……蝙蝠さんと川獺さんは、ちょっかいを出しに行ったそうですよ」
「………………」




少しだけ顔をしかめる蟷螂。




「大丈夫なのか――それは。こちらが迷信だと知っていても、向こうが信じていれば……下手すれば大混乱になるぞ」
「大丈夫でしょう。お二人だってやりすぎはしませんよ」
「そうだろうか。喰鮫と白鷺が参加していないし――もしもということもある」
「……大丈夫だと、思うんですけどねえ」



少しだけ沈黙してから、二人は再び歩き始めた。




「用心のし過ぎだな」
「ですよ」




* * *





「……見慣れた場所に来ると、矢張り暗いのがわかるな」
「新月と同じですからね」



しのびという職業柄、暗闇で物を見るのは慣れているのだけれど。
普通の人間ならば一寸先も見えない闇の中、空に赤い月が浮かんでいれば――確かに、怖いのかも知れない。
そんな事を、蜜蜂は思った。






蟷螂の家にあがりこんで、暖かいお茶を入れてもらう。
喉を通る熱が、渇いた喉を潤す。




「灯を――」
「あ、蟷螂さん」




火を灯そうとする蟷螂を、手で静した。




「もう少しすれば月が出ますよ」




遅くとも亥の刻には月食は終わるという。
これもまた――狂犬の経験論らしい。





「そうか」





それに。




「蜜蜂?」





辺りが暗いから、出来る事もある。
立ち上がりかけて体勢の不安定になっていた蟷螂を――後ろから抱きとめた。





「すみません……ちょっとだけ」





せめて、全てが闇に包まれている、この時だけは。





「……そうか」





蟷螂は短く、そう呟いた。
その、ある意味素気ないとも取れる言動が――心地よい。


ぬくもりが、静かに主張される。
彼がここにいるのだと――はっきりと分かった。
多分、いや絶対に、自分は幸せなのだ。
この瞬間が――とてもとても、嬉しいのだから。


しのびなどという職業についておきながら、ふと人肌が恋しくなる時がある。
あるいは――人恋しくなる時が。
それは我ながら滑稽な感情だと思うのだけれど――実際、それは自分が若いからだと、蝶々などには笑われたけれど。




多分、自分は幾ら歳をとろうと――経験を積もうと。
このぬくもりを求め続けるのではないかと、妙な確信をする。







「――月が、出たみたいですね」







光がようやく差し込んできていた。
少しだけ名残惜しく――それでもゆっくりと手を離す。






と、その時。







がたん、と玄関の方から大きな音がして。
程なく、目の前の戸が開く。






「やっべーやっべー。あー危なかった」
「悪い蟷螂、ちょっと包帯貸してくれ――っと、蜜蜂」






いかにも満身創痍な、蝙蝠と川獺が立っていた。
見れば彼らの服は泥だらけである。





「暗い中二人で何やってんだよ」





からかう様に、蝙蝠の口がつりあがった。
間一髪で蟷螂から身体を離していた蜜蜂は――少しだけ動揺する。






「べ、別に何もしてませんよ――今任務から帰ったところなんです。それより、どうしたんですか二人とも」
「月食にかこつけて近くの村からかいに行ったらさ、物凄い勢いで追いかけられて」
「二人揃って崖から落ちちまったんだよ――きゃはきゃは、マジで忍者かおれらは」





初めからさして疑っていたわけではないらしい。
二人はあっさりと引くと、酷く可笑しそうに語った。






「……ぬしらも頭領なのだから、余り軽はずみに行動するなよ」
「はーい」「あいさ」




よい返事を返した二人に、溜息を吐いて――蟷螂は包帯を取りに席を立った。






「一体何をしたんですか?」
「それがさ――」






少し惜しかったかもしれない。
だけどまあ――月の与えてくれた時間は、既に終わっていたのだ。
ならば、仕方ないのだろう。




そう思って蜜蜂は、二人の話に耳を傾けた。