墨と筆と半紙。それを手に何をするかなど、少年にとってわかりきった事だった。
丁寧に墨を擦り、愛しむように黒い液体を作り上げる。正式な事ではなく、寧ろ非公式な場での秘め事だったので、正座はしない。足を崩したまま、墨をすりつづける。
既に根元まで黒く染まるほど使い込まれた筆を握り、墨にぽつん、とつけた。奥までしっかりとつけて持ち上げると、筆の先から墨が零れる。少年の瞳に、落ちていく黒い球体は映らない。
白い紙を引き寄せる。その中心に、筆先を落す。歪な円の染みが出来る。ふき取られず、過度に墨を吸った筆は、不愉快な円をじわじわと広げる。
筆を浮かす。飛沫が飛ぶ。黒い点が増える。また下ろす。下ろしたまま動かしはしない。あげて、さげる。それだけの動作をただ繰り返す。返り血のように、自分の着物が黒く汚れていく事も気にならない。

いずれ、半紙は真黒に染まった。


「……つまらない」

一人ごちて、笑みを浮かべる。黒い半紙をどけると、畳に染みがついてしまっていた。ああ、どうしよう。これではすぐに見つかる。見つかったら、怒られてしまう。



怒られるのは、嫌だ。



ならばこれを隠さないと。だけど、墨は中々とれないのだ。すぐに拭けばそれでも誤魔化せるかもしれないけれど、もう駄目だ。時間が経ちすぎた。黒い染みは消えない。絶対に。永遠に。



くろが、きえない。



ならば、そうだ、上に何かを置いて隠すというのはどうだろう。結構いい考えではないか。でも、畳の真ん中に何か物を置けば、ばれてしまう。消さないと。黒を、黒色を消さないと。黒色を消す。方法。



ああ、なら、赤をかぶせてみるのはどうだろう。



自分の手首をじっと見てみる。白い肌に、青い血管が浮く。くないを持っていたはずだ。ああでも、これを切れば痛いだろうか。痛いのだろう、きっと、痛いはずだ。痛くないわけが無い。痛い。いたい。いたい――



だったら、他の者で代用すればいい。



誰にしよう。誰でもいい。怒られてしまうから、早くあれを隠さないと。近くにいる人にしよう。誰かいないかな。ああ、いた。よかった。いてくれてよかった。ありがとうございます。



これでもう、怒られない。



名前を呼んで、ついて来てもらう。どうしたという問いには答えず、ただ、呼んだ。その人はついて来てくれた。いい人だ。これが終わったら、お礼を言おう。ちゃんと。きちんと。丁寧に。
あけっぱなしだった障子から中に入る。手をひいてきたその人は、何をやってると呆れたような声を出した。謝っておいて、ばれないように手伝ってください、と言った。その人は仕方ないと言った。やっぱりいい人だ。


くないを構えて、その人の心臓めがけて、刺した。



「……何やっとるんだおぬしは!」




なのに、はじかれた。ああ、隠せなかった。だから怒られたのだろう。ごめんなさい、と謝った。だからもう一度、今度はちゃんとしますといってからくないを投げた。またはじかれた。くない、手裏剣、くない。投げて、突き上げて、刺して、でも全てはじかれて、避けられて、受け止められた。どうしよう。
足に力を込めて、跳んだ。その人に掴みかかり、押し倒す。その人の眼球が震えていた。ああ、ここはとても柔らかそうだ。ここならきっと、刺せる。そう思いながら腕を振り上げ、くないを尽きたてようとした。その前に右側の視界が消えて、痛みが現れた。



何が起こったのだろう。



右目に手を当てると、暖かかった。どくどくと動いているのがわかる。左目で見えた視界は赤い。ああ、なら大丈夫。もう、怒られない。これで、先の黒色は全て消えてしまっただろう。良かった。



ありがとうございます、とお礼を言った。その人の顔はわからない。
ただ大声で誰かを呼んでいた。そしてこちらの名前を呼んだ。



「――め! 喰鮫!」



おかしいなあ、自分はそんな名前じゃないのに、と思いながら――思い出から返ってくる。
左目だけの視界に、あの時と同じように男の顔が見えた。




「海亀?」



その人は相変わらず、よくわからない顔で、黙りこくっていた。