夏が過ぎた。秋になった。だけど果たして自分の中にあるのは、秋になったという情報だけだった。 ただ秋が来たのだから、たぶん夏も来たのだろうと思う。 夏の記憶がまるでない、何故だかはわからないないけれど。 春は来た。確かに来た。あの絵巻みたいに綺麗な桜が未だに瞼に残っている。 目を閉じれば綺麗な桃色が目の前で回る様が見える。それから―― 『鴛鴦』 声。 思わず目を開ける。桜が消える。今の声はなんだ。 分からないくせに妙に心に細波を立てられ、その衝撃で涙が出そうになって唇を噛み締めた。 『この任務が終わったら』 まただ。まただまただまただ。 今度は目を開けているのにその声だけが響く。耳を塞いだ。 だけどどれほどの効果があるのだろう、この頭に響いてくる声相手に。 血が滲むほど噛み締めても耐え切れずに、涙が零れた。慌てて拭おうと手を離す。あたしはしのびなのだ――いかなることがあろうとも泣いてはいけない。だけどそんな脆弱な決意は、強固な感情の前にすぐに屈服した。 『結婚しよう』 「っ!」 もう駄目だ耐え切れない。情けない。せめて誰にも見せぬようにと、顔を埋めて涙を流した。 今の声はなんだなどと笑わせる、これは、彼の声。 『煙草』 『ん?』 『煙草、止めてくれるなら』 春。刀を集め始めて三ヶ月すぎ。 早咲きの桜が咲いた場所、他の人たちには秘密だと彼が連れて行ってくれた。 その秘密は任務のそれとは違い、とても素敵な気がして――あたしはたぶん笑んだと思う。 『そりゃきついな』 そういいながら彼も笑った。笑ってその場で、煙草を捨てた。 それは事実上の婚約宣言だった。 春の終わりを矢張り覚えていないのは、その時彼が死んだから。 四ヶ月と少し。秘密にせずとも桜が咲き誇った時だった。 それから今、五ヶ月が過ぎる。九月――秋に、なった。 五月も六月も七月も八月も、全て流れるように消えた。 何も瞳に映らない、何も耳に届かない、何も心に残らない。 皐月、水無月、文月、葉月。 あたしは一体どうやって過ごしたのだろう。記憶が根こそぎになってしまっている。 「蝶々」 このまま秋も過ぎて冬も過ぎ、再び春が来るのだろうか。 ならば自分はたった一人、それでも―― 「この任務が終わったら、結婚、しよっか」 里が潤ってから――頭領としての勤めを果たしたら。 あの人の許へ行こう――そう、思った。 (貴方は必死に私を守ってくれたから、小さな背中が酷く大きく見えて幸せだった) |