「齊莊公出獵。有一蟲、擧足將搏其輪。問其御曰、此何蟲也――」
「それをわたしの前で読むのには何か意図があると見ていいのか」
「あ、蟷螂どの」

別に意図なんかねえよ、と言って蝶々は軽く笑った。

「課題だったから音読してただけだ」
「『蟷螂の斧』、だろう?」
「そうそう。よくわかるな。原文で読んだだけなのに」
「わたしが学んだ時には散々からかわれたのだ。覚えもする」
「へえ。おれは胡蝶の夢のときなんかそうだったけどな」
「……妙な名前を持ったからな」
「それこそ何かの意図があるとしか思えねえよな」

蟷螂は蝶々の手にあった教本を手に取って、そこに並ぶ文字を見つめる。
蟷螂の斧という漢文である。

曰く、男が御車で外に出ていると、一匹の虫がいた。その虫は鋭い鎌を持ち、御車の車輪を切ろうとしている。男が御者に虫の名を問うと、御者は蟷螂だと答えた。その虫は進む事しか知らず、けして退かない。相手の力を図る事なく、軽視する。男はそれ聞いて、これが人ならば必ず天下の豪傑になっただろう、と言い、車を回してその虫を避けた。


確か、そんな感じの話だったと思う。

「……しかし前から不思議だったのだが、この古事からどうして『蟷螂の斧』の意味が、『弱い者が身の程知らずに強い者に挑む事の例え』になるのだ?」
「確かに割と肯定的なんだよな、古事自体は――まあ、昔の人の都合だろ」


どんな都合だ、と思ったが言わなかった。蝶々に言ってわかるわけもない。
何となく目で漢字を追いながら、自分が学んだ当時の事を思い出す。
散々からかった後、しかしお前はこんな事はしなさそうだ、と皆一様に口をそろえたものだ。
曰く、お前がこの蟷螂なら前もって罠を仕掛けるぐらいはする。
それは褒められているのか微妙な線だったが、寧ろ褒められていないような気もしたが、個人的にさほど不愉快な印象のもたれ方ではなかったので、とりあえず礼を言っておいた。

卑怯も卑劣も上等だ。
最後に笑えれば幸せなのだと、それが家の教えだった。


「……身の程知らず、か」
「おい? 蟷螂どの、そんな真面目に考えることもねえだろ」
「いや、この虫は、一体何を思ってそんな馬鹿な事をやったのだろうかと思った」
「ふうん? 馬鹿な事だと思うのか」
「思うな」

メリットが、ない。
一匹の虫が御車に立ち向かうなど、愚かしすぎる。
所詮は虫けらだとそう言うことか、と何となく思った。

しばしの沈黙の後、蝶々は言う。


「例えば、だ」
「……何だ?」
「例えば。この御車の進行方向に、自分の巣があったかもしれない」
「…………」
「卵があったかもしれない。仲間がいたかもしれない。おれが思うのは、そういう事だよ」




一瞬、浮んだ景色があった。


それはとても貧しい場所のようで、村のようで、或いは里のようで、随分と昔の話のようで。
襤褸を纏った子供達が泣いている。大人もまた痩せ衰えた。食料が尽きている。空間全体を覆う死臭のような物が、気持ちが悪い。腐ったような臭い。纏わりつく。目の前に誰かが居る。見覚えがあるが、ぼやけてわからない。不思議な格好の誰かが言う――最後の任務だ。


「蟷螂どの?」


自分もまた妙な衣を着ている。自分は何処かで思っている。無駄な事、無理な事、無謀な事。だが口には消して出さない。表面にちらとも見せない。例え愚行に映ろうとも、信じ続けるふりをする。信じる事を自覚しないほど深く、信じているふりをする。助かる。助ける。例えそれが――




例えそれが、身の程知らずな行いだったとしても。




「どうしたんだよ、突然――おれ、何か妙な言ったか?」
「いや――違う。悪かった」


不審そうな顔をして、覗き込んできた蝶々を見た。
何故か、喉が焼けるように――否、貫かれたように痛い。

「中々面白い解釈だが、それだと試験の点はもらえぬだろうな」
「――ん? ああ、さっきのな。いいんだよ、自分で勝手に思っただけだからさ」


邪魔をして悪かった、と言って教本を返す。
首を傾げてから再び勉学に戻った蝶々の声を後ろに聞く。

齊莊公出獵。有一蟲、擧足將搏其輪。問其御曰、此何蟲也。對曰、此所謂螳螂者也。其爲蟲也、知進而不知却、不量力而輕敵。莊公曰、此爲人而必爲天下勇武矣。廻車而避之。


纏わりつくような喉の痛みは、未だ消えない。