利用される事というのは、さほど不愉快な物でもないのではないだろう。
利用価値が存在するという事は、自分の存在の肯定である、と思うから。

いや、その考えに行き着いたのは、とある従僕がとても楽しそうに主に仕えているのを見たからである。
楽しそう、は語弊があるかもしれない。その男は淡々と、ただ淡々と、言われるがままに仕事をこなしているだけだったのだから。何処か陰気な雰囲気のする男で、実際表情は少しも変わっていないのだが、何処か楽しそうだったのを記憶している。その労働はとてもではないが楽しんでやれるような種類の代物ではないはずなのだが、実に楽しそうに。ああ被虐趣味ってああいう事をいうのだろうかとぼうっと考えた。


だけど、多分、それは違うのだ。

虐げられる事に喜びを得るというのではないだろう。どちらかといえば、そう、やはり利用だ。利用される事への喜び。利用価値。役に立てるという事。存在の肯定。そんな世迷言を言えば、彼の主は笑って否定するだろうか。あ、だけどいいかもしれない。どんな目に合わされても、不幸ではない主を見つけられるという事は。


「そう思うんですけど、どう思いますか?」
「何の話だ? というかお前は」
「皿場工舎です」
「……ああ、家鳴将軍家御側人十一人集か」
「それはそうなんですけど……そういわれるの嫌なので、あまり言わないで下さい」
「……構わないが、私に何の用だ」
「幸せですか?」

その仮面が無ければその人が珍妙な顔をするのを拝めたかもしれない。まあ見たくないけど。そう思っていると、存外簡単に肯定の返事が返ってきたので、どうもあの女の人の腹心らしくはないなあ、とだけ。そういえばあの女の人は随分明るいけれどこの人はとても陰気だし、そういう物なのかもしれない。
だからただ「いいなあ」とだけ、呟いた。