「おい、潤」
「ん」
「潤。哀川潤。哀川ー」
「みょーじでよぶなあ」
「平仮名で喋るな。起きろ」




寝ぼけたまま首を締めようとした哀川潤の手を、頭を振ることで邪険に振り払う軋識。



「もーちょい」
「もうちょいじゃねえよ。起きろ。起きて状況を説明しろ」
「はあ? あんたあたしの眠りを妨げようなんざいい度胸だな」



そこまで言って哀川潤は僅かに瞳を開いた。
瞼の下から赤い眼が見えて、その赤が瞬時に広がる。





「兄ちゃんじゃねえか」
「ああ」
「何やってんだ? 一人SM?」
「誰がするか!」





鋭い声があがった。しかし、そう聞いても仕方がないような妙な状況だったり。
ただ、事は軋識の知らないところで起こり終わっていた。



なんとか両膝で立っているものの、軋識の両手は背中で縛られ、足も拘束されている。
苦々しげな表情で眉根に皺を寄せると、吐き捨てるように彼は言った。









「俺の身の回りに怒る面倒ごとの三割はお前が起こしてるんだ」





残りの四割は家族が、残りの三割は《同志》の連中が起こしている。
ちなみに人数比から行くと、彼女の面倒の起こし具合は飛びぬけていた。





「だからあたしの仕業だって言うのか?」


哀川潤は不機嫌そうというより、心外そうな表情で聞く。



「この状況でお前を疑わない奴はいないだろうな」


軋識は不機嫌そうに答えた。












「いやあ……昨日の記憶、ないぜ?」
「俺もない……だが確実にこんな状況に望んでなったわけがない」






というか、そうだとかなり困る。
常日頃から自分に迷惑を掛け捲る連中との間に引いた一線を踏み越えてしまうからだ。







「ふむ」
「お前も覚えてねえんなら仕方ねえな……状況説明はいいから、これとけ」
「ふむ」
「この容赦ない縛り方も確実にお前なんだよな……おい潤、聞いてるのか」
「ふむ」





考え込むような表情を見せていた少女は、にいと笑った。
軽くデジャヴな、微笑だった。



昔この微笑を見た後、自分がどうなったか――




あれ。




どうなったんだろう。

覚えてないというより、思い出したくないような。








「つまり今あたしは兄ちゃんを好きにしていいってことなんだよな?」
「違う。断じて違う。違うからそんな嬉しそうな顔してにじり寄んなぁあああ!」



「哀川潤、いきまーす!」
「来なくていい!」
「赤いと三倍早いんだぜ兄ちゃん!」
「漫画ネタは止めろ!」





叫び空しく、ある意味予想通り。
飼い主にじゃれ付く子猫のように、哀川潤は軋識に飛びついた。
しかしまあ、哀川潤は幾ら少女とは言え、子猫ではなく人間である。
拘束されている軋識は、受身などとる事叶わず――






ぐきっ







「痛っ……!」
「あ、ごめん兄ちゃん」
「重い! 下りろ!」





鈍い音をたてている自分の腕を心配しつつ、少女に向かって言葉を吐く軋識。
しかし何故だか、返事がない。
会話のテンポにしては余りにも間をとりすぎていた。
ようやくその事に気付いた軋識は、自分の腕から少女に視線をやる。




「てめえうら若き乙女に重いたぁどういう了見だ」
「いや、うら若き乙女は動けない大の男を押し倒したりしな――」





途中で頭突きされた。
痛かった。





「…………いてえ」
「あたしも痛かった」
「馬鹿かお前は!」




互いに軽く涙目。



何やってんだ。
何馬鹿やってんだ。






「あ、そっかあたしは手使えるんだ」
「忘れてたのか……」
「いや、兄ちゃんとあたしは一心同体だし」
「お前と一心同体だと嬉しいのか嬉しくないのかわかんねえな」





一応オブラートに包んだ(また頭突きされても困る)貶し言葉だったのだが、哀川潤はいいほうに受け取ったらしい。


どっちにしろ、嫌なのは間違いがなかった。





「これどうするべき? やっぱキスとかいっちゃう?」
「いっちゃう? じゃねえっつーの。俺を開放しろ」
「据え膳食わぬは武士の恥」
「据えてねえし膳じゃねえしお前武士じゃねえだろうが! 乙女は何処行きやがった!」
「乙女で、武士なんだよ」
「都合よすぎだろ」
「ギャップ萌え」
「悪いがそんなものは俺に装備されてない」
「む。確かにあたしはギャップ属性じゃないな」
「お前属性とかあったのか」
「あるよ。最強属性」
「それ属性じゃねえよ。どんな萌えポイントだ」
「最強で、最強で、最強。ギャップなし矛盾なしどこいってもどこまでいっても最強。お姉さま! みたいな」
「小娘が最強ではちゃめちゃだとこっちは迷惑なばかりなんだが」
「お黙り!」
「お前今女王様属性で行こうとか思っただろ」
「あ、わかった?」





しかしいい加減腕が限界っぽいのだが。
軋む骨に一瞬目を閉じ、次に目を開いたとき目前に赤色が見えた。





「ちゅーしようぜちゅー」
「ちゅーとか言うな」






言ったところで唇を合わされた。




何だ、妙なことでもされるかと思えば触れるだけの軽い物。
小娘らしい一面だった。



それで得意そうな顔してるのがまた可愛らしい、と思わなくもない。






だから、まあ出来心だったのだ。





「…………っ」






唇をこじ開け舌を入れる。
舌を絡ませて口内を犯せば。





「くおらっ」






そこで突き飛ばされた。
突き飛ばしたというか、飛びのいたというか。
予期せぬ反撃だったのだろう、哀川潤の顔は真っ赤だった。



少しだけ爽快な気もしたのだが、いい加減手がやばい。
しかしこれ、血が止まってるんじゃなかろうか。
なんか感覚が薄れている気がするんだが。



「兄ちゃんの癖に! 馬鹿! ヘタレ! 変態! 滅べ! 後で復活させてやる!」
「俺に向かって変態って言うな」




馬鹿でもヘタレでも構わないが、そこだけは譲れない。
あいつらの仲間入りだけは嫌だった。


ていうか後で復活させるんですね、哀川潤さん。





「年季の差だ」
「おっさんくさい」
「うるせえ」
「兄ちゃんさくらんぼ舌で結べる?」
「蝶々結びまでなら」
「レベル高っ」





ふんっと精いっぱい胸をはって、哀川潤は立ち上がった。





「さくらんぼ買ってきて練習してやるから覚えてろよ!」
「あれって練習して上手くなるもんなのか……ていうかあれは練習用なのか……?」
「うるさい! じゃ、行ってくる」
「おい潤それ俺の財布……って行くなぁぁあああ!」




腕が。腕が腕が。
しかし哀川潤が軋識の思い通りになったことなど、一度としてない。





「…………っと」



何とか体勢を立て直し、仕方がないので横たわる。
起きたときと同じ格好。恐らくこれが一番楽だった。















「………………」



















しかし情けない格好である。











* * *













「…………うー」



うってかわって哀川潤。
今だ二十歳にも満たない、軋識から見れば小娘と称されてしまう少女は。




宣言したとおりにさくらんぼを買いに行くわけでもなく。
軋識のマンションの部屋の外――というか扉の前で、悶えていた。
顔を真っ赤にしながら。
怒ったように瞳を吊り上げて。



がんっと扉を蹴飛ばす。





「覚えてろよ!」






彼女らしくない、まるで戦隊アニメの敵役みたいな台詞をはきながら、彼女は駆け出した。
それもまた彼女らしくもない、青臭い仕草、だった。