「ひーとしき」
「あ?」



面倒くさげに振り返った人識だったが、そこには誰もいなかった。

少しだけ、違和感を感じる気配。



殺意でもなく敵意でもない――ただの純粋な戦意だけを感じる。
そんな面倒くさいものを発せるのは、人識の知り合いに一人しかいなかった。



「出夢か?」
「ぴんぽんぴんぽん! だーいせーかい!」



どこから現れたのか、眼で追うのも面倒な程のスピードで、正しく瞬く間に現れた匂宮出夢。
随分と久しぶりになるその姿を認識し、やはり成長するものなのだと少しだけ実感。
当たり前なのだが、どうにもあれから時がたったという認識が薄い。



「さすがじゃん。やっぱ僕のこと愛しちゃってた?」
「何が『やっぱ』なんだよ。俺がお前のこと愛してる描写が一行でもあったのか」
「何言ってんだ人識? めくるめく僕らのラブシーンは十二冊連続刊行できるぐらいだったぜ」
「そんな事実はねえよ。ていうかそれは別の話だ」
「ふっうーん?」



相変わらずテンション高めで、どこか演技がかったわざとらしい仕草で、出夢は首を傾げた。
まるで猫のように、いやらしそうに目を細める。



「人識、変わっちゃった?」
「そりゃあな」
「ふうん。ふうんふうんふうんふうんふうんふうんふうん」
「多い」
「ツッコミに覇気がない。つっまんねーの」


ぶう、と口を尖らせた出夢を、目を細めて見つめる人識。




「お前……なんか変だな」
「変? ぎゃはは、んなこと言うお前のが変だぜ。僕が変じゃないときなんてあったワケ?」
「やっぱ、変だ」
「だーかーらー」
「何かあったのか?」



言い訳とも誤魔化しともつかない台詞を完全に無視して、酷く面倒そうに人識は聞いた。
出夢は一旦口を閉じ、呟くような――それでも確かに人識に聞こえるような声で、言う。




















「お前が変わったみたいに、僕だって変わるんだよ」






















その、何故かワンテンポ遅れて聞こえてくる言葉が人識に届く前に。
彼女の――否、彼の唇は言葉を紡ぎ終わり、刹那。















「…………っ……!」
「おー偉い偉い。ちゃんと強くなってんじゃん」












獣のようなしなやかな体のバネを存分に使い、一気に射程距離を乗り越えてきた出夢。
それを一瞬よりも更に早く悟ると、喉笛に噛み付かんとする彼女を最速の動きで薙ぐ。

心臓の音が漏れ出しそうなほど高まるのを感じ、その緊張感はあの赤色と相対したときに酷く似ていた。

しかし今、自分を守ろうとする家族はここにはいない。
そしてあの赤色の持ち合わせる反吐の出るほどの甘さを、彼は所有していない。

以前の彼ならばわからない。昔の彼には甘さがあった――しかし、今自分の目の前でとがった八重歯を晒す少女にはその甘さがない。
それが変わったということなのか――強くなったと、否。







弱くなったと、いうことなのか。







「殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す。一回で殺して何回でも殺す。踏みつけて嬲ってぐっちゃぐちゃにして、全部、全部全部全部――」





彼の目じりが光った。
しかしそれは錯覚だったようで、その大きな瞳からは涙など零れはしない。






「殺してやるよ、人識」






来る。



そうだ、初めに覚えた違和感はこれだ。
気配から、出夢であることは直ぐにわかった。
ただ、感じた戦意が、酷く歪んでいたのだ。
恐らくそれは、今彼が余すところなく臆すところなく流し続けている殺意の所業で。


そんな場合ではないとわかりながら、人識はふと手に持ったナイフを見た。
鈍く光る愛用の品は、先程からちかちかと、反射する光を変化させ点滅している。
とりあえずそれだけで、自分が震えているという証明には十分だった。
そしてそれが、武者震いなどという格好いいものでないことははっきりとわかっている。



殺しを楽しいなどと思った事はない。
だからというわけでもないのだろうが、殺されることを怖いと思った事もなかった。







なのに自分は、今。

彼と相対することを恐れている――











「…………止めろ」
「ひゅう。余裕じゃん」



単純な第二激を、ナイフを利用しながら避けると、口笛と共にからかうような称賛が背後から聞こえる。

ぶち、という布の激しく裂ける音がした。

最小の動きで隙を見せないように振り向けば、出夢が拘束衣を破っているところだった。


長く細い――足と同じく無駄な筋肉の一切ついていない、何かを殺すためだけに存在している両腕が晒される。
どうやら殺戮の時間が本格的に始まるようだった。


冷静に解説を始める脳と裏腹に、人識の頬を汗が伝う。
世間一般では冷や汗と呼ばれる種類の汗だった。





「止めろ、出夢」
「何で?」




血のように赤い舌、実際に血を吸ってきたのであろう赤い舌を、誘うように見せ付けて、出夢は問う。
本当の本当に不思議そうに、出夢は問う。



「そんなつっまんねーこと言うなよなー。僕がっかりするぜ? 人識は人識だろーと思ってんのに」
「俺も今、割とお前にがっかりしてるぜ」
「じゃあせめて、僕だけはがっかりさせるなよ」





三度目になる衝突。

ただし今回は出夢側に、大きな腕のふりがつく。
出血大サービスなことに、最初から両手だった。





「暴飲暴食っ!」
「止めろっつってんだろうが!」





うまく捌ききれず、ナイフで切りつけ彼の必殺技を避ける。
慣れてしまい何の感情も浮かんでこない肉の感触が手にあって、瞳に写った少女は微笑んでいた。
切りつけられてもその微笑は崩れず、どころか更に笑みは深まり、最後には哄笑になった。




「ぎゃはははははっ!」
「…………かは」





一応礼儀のように笑いを返すと、人識は構えをとき、少女と正面から向き合う。
出夢はそんな人識の意思を計りかねるようにしながらも、罠ならば罠ごと粉砕する心算で、彼の元に飛び込んだ。
その幾らなんでも単純すぎる動きで、人識は確信を深める。






































からん、と音がしてスピードを緩めぬまま視線だけやると、どうやら人識の持っていたナイフのようだった。
自分のものらしい赤い血液が付着していて、そこでようやく自分の血が赤いのだと気がつく。
しかし気がついたところで何が変わるわけでもなく、跳躍し距離を縮め、それでも動かない人識を射程距離に入れる。
《一喰い》を使うのは止めにして、口を大きく開くと彼の懐に飛び込み、




そこで人識が瞳を閉じていることを知った。







「は」







勢いで頬に噛み付くと、鉄の味が喉に張り付く。
肉を齧りとるつもりでの攻撃は、人識の意味不明な反撃によって阻まれてしまった。
刺青の入っている頬で、目の前には黒青の幾何学的な曲線がある。



視線をあげると、赤い瞳が見える。
視線をさげると、微笑んでいる口元が見えた。



普段ならそれで激情し、顎の力を強めるところだけれど、それはない。
ただ、その唇が酷く憎らしく思えて、齧り付くようなキスをした。
































どちらからというのでもない、互いの中間で舌を絡ませると、最後に少し名残を残して放す。
この苦い味が自分の血なのだと思うと、矢張りおかしくて笑ってしまった。
細い線が唇と唇を繋ぐように伸びて、切れた。




「避けろよ」
「………………」
「戦えよ」
「………………」
「僕は」
「俺は」





泣きそうだった。
最早錯覚などと言って逃げる事は不可能である。

次に続く言葉がなんなのか、もう推測し終わり確信も持ち終わった人識は、出夢の言葉を遮った。









「俺は、優しくない」
「は」
「圧倒的に、絶望的に、どうしようもなく、優しくない」






だらん、と無気力に出夢の腕が下がる。
顔を見るのは嫌だったので、その腕にしばし見とれてみる。





綺麗な腕。
限られた人間しか見ることの出来ない、究極の曲線美。




ただその美しさは、人を殺す。








「だから、殺されたがってる奴を殺したりなんか、してやるわけねえだろうが」









出夢は――足まで力が抜けてしまったかように、その体躯を揺らした。
支えるように、彼の体躯を支える人識。


それは、ただ倒れ掛かってきたから自分の体の前で受け止めたような、単純で、ぶっきらぼうな動きで。
その癖に、少女の頭をゆっくりと抱擁する。







「ぎゃは」








少女は驚いたように瞳を開いた表情のまま。







「ぎゃははははははははは!」









大きく哄笑すると、今度は人識にしか聞こえないように、





















「妹が死んだ」
















そう、呟いた。