「蜜蜂ー」
「あ、蝙蝠さん。おはようございます」
「お願いがあんだけど」
「なんですか?」











「お前の体、俺の好きにさせてくんねえ?」













そういった蝙蝠の顔は珍しく真剣である。
対して蜜蜂は、






「はいぃぃぃい!?」






物凄くうろたえた声で数歩下がった。







「い、いえ僕は……えと、後で死ぬの嫌ですし」
「きゃはきゃは、何勘違ってるんだよ」
「へ?」








頭の中に、目下蝙蝠争奪中の三人の先輩を思い浮かべていた蜜蜂は、これまた珍しく苦笑のような笑みを形作っている蝙蝠の顔を、しっかりと見る。
蝙蝠は少し照れたような、気まずげな表情で視線を反らし、頬をかいた。










「今日な、俺仕事ねえんだよ」
「はあ」
「で、あいつらも非番なわけ」
「ああ」



あいつらが誰かなどとは今更聞くまでもなかった。





「で、毎度毎度非番重なる度に追っかけまわされるのも飽きてんの」
「飽きてるんですか」





まあ、確かに嫌にもなるだろうが。





「でさ、物は頼み何だけど、今日お前も非番だろ? 俺がお前の格好するからさ、今日は里の外にでも行ってきてくんねえ?」
「ああ、だから体をって話ですか」
「そうそう」






人気がありすぎるというのも大変なものだ。
そんな風に思って蜜蜂は笑うと、心よくその頼みを了承した。







「別に構いませんよ」
「マジ? ありがとな!」






そういった蝙蝠の表情は酷く嬉しそうで、その微笑みは酷く純粋そうで。
先程までの少しだけ憂鬱そうな表情との落差で、不覚にもときめいた。





「いえいえ。じゃ、僕は外に行きますね」





しかしこれ以上蝙蝠の苦労を増やすのもあれなので、それは口に出さず蜜蜂は外に出る。
すぐに引く癖がついているのは、後輩の常なのかもしれない。








* * *











「蜜蜂っ! お前蝙蝠見なかったか?」
「蝙蝠さんですか? 見てませんよ」
「わかった!」



残りの二人に見つかる前に、何とか蝙蝠を探し出そうと、川獺は必死だった。
たぶん他二名も右に同じに違いない。



「鮫喰、なうろだいなてしりたし禁監前お」
「しませんよそんな事。あなたこそどうなのです? 怪しいですね、怪しいですね、怪しいですね、怪しいですね」
「よえねくし怪」
「ならば川獺が……いえ、無理ですね。彼には」
「ならかだしな性斐甲」
「ですよね」



予想していたら、別に会いたくもない面子に出会った。
それでも言いたい事はあったので、川獺は口を開く。


「お前ら人のいないところで結託して悪口言うな……!」
「事実ですし」「しだ実事」
「…………くっ」



「かたけつ見りよれそ」
「見つけたらこんなとこいるわけねえだろ」
「確かにそうですね。大体川獺が見つけたならば直ぐにこちらにわかりますし」
「何で!? 俺なんか信号的な物出してんの!?」
「ふふ……さあ、どうでしょうね」
「怖っ」




喰鮫と川獺が喋っている間に、一人で再び蝙蝠を見つけに行こうとする白鷺。




「あ、白鷺待て!」
「よだや」
「では私も行くとしましょう」
「お前ら早いんだよ……」





実を言えば、蝙蝠はすぐ傍にいたのだけれど。
そんな事には気がつかず、三人の捜索は始まった。











* * *















蜜蜂の格好をした蝙蝠は、一人深く溜息をついた。

多分、今はほとんど唯一の好機に違いない。


わかってはいるのだが、足を進めるのには勇気がいる。











「俺は、空っぽなんだ」









誰にも聞こえないような声で呟いた。
そうは言っても涙は流れず、ただただ自嘲的な笑みだけが浮かぶ。





この里に生まれて、今まで過ごしてきた。
しのびとして生き、しのびとして死ぬ自分。
真庭蝙蝠と言う――正に外側の名だけを与えられた、満ちることのない器。
器を作ればその形に水はなる。
ただ、その、形作るべき水が自分にはない。
中身なき器は――思いのほか、空虚だった。
空しくて、虚しいもの。





そんなもの、真庭の里に生まれた以上は誰もが同じだと言われるかもしれない。
だけれど、彼らと蝙蝠との間には、決定的な違いあった。












唯一あるはずの器の形すら変えてしまえる。











それは、皮肉なことに彼が自らを空にまでして得た、忍法の所業だった。
空っぽの中身に、不確かな器。
喪失感すら得ることの出来ない、失うものすら最初から存在しない不幸。
不幸を不幸と気がつけず、ただ漠然と不幸なのだろうと理解する不幸せ。








そんな中。










真直ぐに伸びたその背中は、何故だかとても広く。
真直ぐに伸びるその視線は、何故だかとても強く。






幼い時には名前がわからなかった感情。

最初に名づけたのは、憧れや憧憬。

次に得たのは、嫉妬や羨みの言葉。













最後に見たのは――好きだと言う、気持ちだった。












そして、自分は気付く。


空のはずの器に、たくさんの言葉が宿っていることに、気付く。
空のはずの自分に、たくさんの心が宿っていることに、気付く。












まず初めに――言葉があった。













言葉以上のものが、欲しくなった。
しかしそれはもしかすると、言葉すら失ってしまう行為なのかも知れなくて――












「……どんだけビビってんだ、俺」














からかう口調で呟いて、自分のものとは違う手をそうっと額に当てる。
その手が僅かに震えていることなど、まるでないかのように平然と、独白した。









「あー……どうするんだよ」
「どうかしたのか、蜜蜂」








びくん、と体が震えるのが分かる。
焦って振り返ると、前髪越しに、彼が見えた。
そんなことを確認しなくても、わかってはいたのだけれど。


聞き間違える訳がない。







「蟷螂」











自分を呼び捨てにした蜜蜂に対し、蟷螂は少し首を傾げてから、













「ああ、ぬしは蝙蝠か」















天然の癖に何故だか鋭い勘で、真実をついた。



その言葉に――泣きそうに、なる。







「あったりー! 真庭蝙蝠さまでした」
「何故蜜蜂の格好をしている?」
「ちょっと、逃げてて」





邪魔されずに蟷螂に会うには、蜜蜂が丁度いいと思った。
その辺りの、蝙蝠しかしらない事情は伏せて、笑う。
蟷螂は納得したようだった。







「大変だな、ぬしも」
「まあ、仕方ねえよ」
「余り差し障るようなら、わたしから言っておこうか。効果はないかもしれないが、言うだけでも」







その僅かに慮るような台詞に、胸が弾んだ。








「休みには体をきちんと休めぬと、任務にも影響してくるからな」









そしてすぐ、出てきた言葉に落胆する。





わかってはいる。





きっと言葉は真実で、これが彼の優しさで、それが自分は大好きで、だけどそれ故に決して報われない思い。










「蝙蝠……!?」









わかってはいる。
なのに何故、こんなに泣けて来るんだろう。


「悪……ごめ、」





涙を拭うけれど、次から次へとあふれ出る液体は決して枯れはしなかった。








ああ、自分の中には涙というのもあったのか。








それだけが嬉しくて、とても哀しい。








「……すまない」



気付けば、先程よりも近くで声が聞こえる。
霞む視界の向こう側、見上げるような視線で、何故だか悔しそうな蟷螂の顔が見えた。







「蟷螂は、そうだよな」
「何がだ」
「誰にでも、優しい」
「それは、褒め言葉か?」
「当たり前、だろ……」
「ならば何故」












何が。















「そんなに卑下する口調で話す?」






「……っ」












誰にでも優しい彼が好きで。
優しいからこその強さが好きで。
だけどその優しさを、独り占めしたいとさえ思った。




空っぽの器には甘美な感情が満ちて、醜い後味だけが残り。
そんな醜さを曝け出してしまえば、皆は自分から離れてしまうのかと思うと何も出来なかった。









「すまない」
「……わけもわかってないくせに、謝んな」
「わからなくても――私が悪い」
「何で」
「決めていたから」





何を、とは聞けなかった。








「ぬしの事は泣かせないと、決めていたから」
「っ……だから!」







そういう言葉を言うんじゃない。
幾ら窘めようと、心が勝手に期待してしまう。
期待しただけで、絶望のときは余りにもつらい。
瞬間の快楽は、後に響き続ける辛苦へと変わる。









「そういう台詞は、好きな奴だけに言えよ、」
「……伝わらないものだな」








温もりを持った指が、自分の頬を滑って涙を拭った。




















「わたしはぬしが、好きだ――蝙蝠」
「え」














少しだけ透明になった視界に写るもの。
真剣そのものの――強い視線。
誰に恥じるところもなく、真直ぐに伸びた背筋。






真庭蟷螂。






大切な、大好きな。








「ここで、皆好きだとかいうオチは無しだからな」
「ああ」
「好きって何なのか、わかってんのかよ」
「ああ」
「抱きしめたいとか口付けたいとか独占したいとか誰にも渡したくないとか、」
「ああ」
「俺もあんたが好きなんだけど」












そこで蟷螂は、いつも余り動かない表情を、崩した。



















「そういうことで、いいんだよな?」
「……ああ」



















また、涙が出た。
空虚な器から、溢れ出るぐらいの感情の奔流。










「蝙蝠」
「……んっだよ」
「一つだけ、頼んでもいいか」
「何が」
「蜜蜂の格好をやめてくれ」








そこでようやく、自分が蜜蜂のままだった事に気がついた蝙蝠は。
言われるままに、慌てていつもの自分に、器を組み替えて。








「……これで、ちゃんと出来る」
「何」









が、と言う質問は、強く押し付けられた唇に吸い込まれた。








「蜜蜂の格好の時にするのは、やはり少し迷ったのでな」
「俺に対しても少しは躊躇しろよ……」















いきなりの展開で、早鐘のように打つ心臓を守るように蝙蝠は俯く。
それを見透かしたように、同じく包み込むような抱擁を与える蟷螂。










「大丈夫だ」
「……ホント、わかってないくせに断定するよな」
「ぬしは、大丈夫だ」








守るから。
そんな声が聞こえる。









「嘘は、吐くなよな」
「ああ」










彼が嘘など吐かない事は知っている――それでも確認したい。
力強く断定してくれるその言葉が、自らを満たすのを感じる、から。















そ れ は 奇 跡 な ん か じ ゃ な い
(不確かな自分に与えられた、確かな現実)







Title:美猫終焉 様