「ただいま」



扉を閉め、律儀に声をかける。

返事は無かった。



「?」




以前までは返事などあるわけがなかったし、だから態々挨拶などすることはなかったのだが。
しかし今の蟷螂は優雅な一人暮らしではない。


決して広いわけではないマンションの一室に、一人の少年と同居している。
親戚縁者の類ではない――それどころか、分類するならばそれは敵対関係ともとられるような間柄である。




蟷螂は警察官だ。
そして少年は――その警察に何度かお世話になっている、世間一般に言われる不良少年なのである。





不良少年。





しかしその言葉ほど、彼に似合わぬものはないというのが――蟷螂も含め、少年を知っている警官達の共通認識だった。








「蜜蜂?」





少年の名は、蜜蜂と言う。
苗字で呼ばれることを嫌がる彼の、元の苗字を呼ぶ者はいない。少しでも刺激してはいけないという配慮も、あるにはあった。

現在蟷螂の被保護者になっているという意味で――便宜上は、蟷螂の苗字の真庭を採用している。



真庭蜜蜂――少年はその名前を、気に入ったようだった。






「どうした――蜜蜂」







ふと、不安が過ぎる。
また来たのではないだろうか。






彼用に宛がっている部屋の扉を開いた、刹那――鈍い衝撃が走り。







「おかえりなさい、かまきりさん」







不自然な音で聞こえてくる、声が聞こえた。











* * *












蜜蜂は、周囲から『良い子』だと呼ばれるタイプの少年だった。
成績もよく、運動もそれなりに出来、しかし奢ったところない、優しく謙虚な好青年。
周囲の人間は彼のことを、そんな風に語る。
今日び珍しい、近所の人間にきちんと挨拶をするような少年だったそうだ。



否――過去形で書くのは必ずしも正しくはない。
彼は今でも『良い子』のままなのだ。



大抵は、という脚注がつくものの――
三件の暴力事件を起こして、尚。





それは不愉快なほどに。
それは不自然なほどに。





ただ、彼は――時々、それこそ魔が差したように、人が変わったように、キレる。
日常の延長で、ふとした切欠も何も無く、その残虐性は発露し――それが蜜蜂が蟷螂の保護下に入った大きな原因でもあるのだが――彼は世界を傷つける。








何もかもが憎いというように。
何もかもを愛しているような、顔をして。










「かまきりさん」
「……っ……随分、ごあいさつ、だな」






低迷していた意識が緩やかに覚醒する。

その時点の状況を確認――鎖のすれる不愉快な金属音、手首にある冷たい感触。
腕が拘束されている――どうやら上着に入っていた手錠を使われたようだ。





「眠気は覚めたでしょう?」







微笑む顔は天使のように優しく、前髪の奥から覗く瞳だけが禍々しい。
嗚呼、何のことはない――いつものものが来たのである。



脈略も、動機も何も無く。
二重人格を疑うほどに、入れ替わる彼の狂気が。







「何をする――つもりだ」
「さすがに適応が早いんですね――そういうところ、すっごく嫌いです」







でも、と蜜蜂は笑った。








「今日は楽しいことをするんです」
「それは」







誰にとっての楽しいことなのか――そう聞こうとする蟷螂の声は、突如としてその存在を封印される。








見開いた瞳に映るのは矢張り、蜜蜂の笑顔のみで。







「……っ……」









僅かにバックルの立てる金属音が聞こえる。
下半身を滑るような感触に鳥肌が立つのがはっきりと分かる――背筋を何かがすり抜けていくような不快感。
しかし抗議の声は、ただただ飲み込まれるばかりだった。





「僕は、あなたが、とても、とても――きらいです」
「ぁあ……っ!」







言葉と連動するかのように、現れたのは先程の否ではない不快感。
異物の進入してくる感覚は緩々と痛みに変わる。
蜜蜂の指によって歯を食い縛ることも出来ずに苦痛に耐える蟷螂を、蜜蜂は酷く愛しそうに見つめた。






「噛んでもいいんですよ? 別に、怒りませんから」






返事は無く、しかし別段気分を害したわけでも無さそうに、蜜蜂は蟷螂の頬を殴った。
ばし、という非現実的な音が響いて、蟷螂の頬が僅かに赤く染まる。









「強情ですね」








困ったような人好きのする笑顔を見せてから、蜜蜂は蟷螂の目の前に何かを晒した。
しかしピントのぼやける瞳がそれを認識する前に、蜜蜂はそれについているスイッチを、静かに押した。











「っ……!」








直に伝わってくる振動。
ようやく慣れかけた異物感が一気に増徴する。
何よりの――激痛。
快楽にも似た――否、強烈な痛みを伴う快楽だった。









「ぁ……ぐ……っ」








蜜蜂が口内に差し入れていた指を出したのと同時に、喘ぎとも呻きとも取れぬ声が漏れる。
耐えるように強く閉じた瞼、その端から涙が零れた。







「最近、便利になりましたよね。それ、ローターって言うそうです」






平然と言ってのけると蜜蜂は再び手に持った何かを見せた。
リモコン――と言っていいのだろう。作り自体は酷く単純そうで、霞む視界に強と弱の二文字だけが見える。







「あは……とっても、いいざまだと思いますよ、蟷螂さん」









再びかちりと言う音がして。










「っぁあああああっ!」







声を抑える力は最早残ってない。
理性が消えているわけではない――ただ、身体がいう事を聞かないのだ。
意識も白濁してきていて、冷静な思考など望めそうも無い。





自然反る身体を締め付けるように、腕に絡まる手錠が鳴る。
搾り出すような声の漏れる唇から、だらしなく一筋の雫が零れた。






「勘違いしないでくださいね――これは、一部の人に人気の、歪んだ愛情とかじゃないですから」








見下ろすように見下すように、微笑む少年。









「これは嫌がらせなんですから――僕は貴方が、嫌いだから」









初めにも言った言葉を再び繰り返した蜜蜂は、その時。



煩悶しながらも、消して歪まない――蟷螂の、強い視線を見た。






「本当、」







がん、と躊躇なく蹴りつける。
その一点は少しだけ赤くなり――酷く黒くなった。










「うざったいなあ……っ」










再び蹴りつけると、ゆっくりと蟷螂は視線をあげる。



気持ち悪い、とはっきりと呟く蜜蜂。










「思っていること、当ててあげましょうか?」








言葉と言葉の合間、蹴りつけるスピードは変わらない。








「蜜蜂は本当は良い子なんだ受け入れれば心を開いてくれるはずだきっと何か可哀相な事情があったに違いないならば自分が助けてあげないと――ってね。余計なお世話ですよ」







力も、変わらなかった。








「僕は『良い子』なんかじゃない」









貴方も彼らと同じなんでしょう、と瞳が言う。

蜜蜂の両親は、三回目の補導の際――少年を迎えには来なかった。
家からは必要最低限のものだけがなくなっていて、主が戻ることがないことを知らせるには十分で。
唯一手のつけられていなかった蜜蜂の部屋は、









「『良い子』の僕が僕なんだって勝手に勘違いして、押し付けないでください――僕は『良い子』なんかじゃなくても僕なのに、認めてくれなくって訳知り顔して『お前は本当はそんな子じゃない』とか。気持ち、悪い」










教科書参考書の類が整然と並ぶ机の反対側、無残に切り裂かれた壁だけが残っていた。










「何なんですか、それ。『良い子』の僕しかいらないんだったら、本当の、本物の僕には」






まるで何の価値もないみたい、と。


消え入るような、言葉で。
消え入るような、笑顔で。







「……どうでも、いい」
「え?」






呻くようにくぐもった声、不思議そうに聞き返す少年。
蟷螂は――意識を保つのもやっとな状況で――それでも、断言する。









「そんなこと、は――どうでもっ……わた、し――は」






お前がどうしたいかだけが、聞きたい。

そう呟く瞳は、少しも濁らなかった。








少年はやはり優しく微笑んで、









「たすけて」











搾り出すような声で、こたえた。