「おい《街》」
「……何だ《凶獣》。終わったのか?」
「違う。あれ見ろ」


キーボードを叩く手を止めないまま、少年は瞳だけを外に向けて言った。
《街》――式岸軋騎は訝しげにしながらも、作業を中断して少年の方に向かう。
そちら側にしか窓が無いのだ、この部屋には。


そして窓から少年の視線と同じく下を覗き込み、





「痛っ」
「……馬鹿?」





思わず顔を近づきすぎてガラスに頭をぶつけた。
少年はこれでもかと言うぐらい蔑みを込めて式岸を見つめていたが、《二重世界》なんかに比べれば可愛いものだ。

……いや、あいつに比べれば大抵の人間の悪意など可愛いものだが。



しかし《凶獣》の事もましてや《二重世界》の事もいまやどうでもいい。








「何でいる……!?」







今ここが《死線》のマンションではないことにとりあえず安堵する。
最も《死線》のマンションだったならば、男の姿は見えなかっただろうけれど。







そう、彼――








「あれ何つったっけ……まか――まかしき?」
「曲識だ」







相変わらずの燕尾服。
隣に抱えてあるファゴット。
零崎曲識。




軋識の――家族。
式岸軋騎ではなく、零崎軋識の。




何故彼がここにいるのだろう。

教えた覚えなど無いし、そもそも教えるわけも無い。
偶然――なのだろうか。





しかしそれを否定するかのように、曲識は真直ぐな視線を軋識の居る階に送り続けている。









「悪い、ちょっと行ってくる」
「終わってんのか?」
「九割」
「死ね」






罵声を背中に部屋を出る。
そもそもこのまま放っておいた方が、少年にとっては都合が悪いとは思うのだけれど。

しかしそもそもというならそもそも、これは軋識の問題なのだから何もいえなかった。







「悪い」







再び呟いて階段をかけおりた。








* * *









「トキ」
「……やっぱりアスだったか」
「お前何してるっちゃ……!」
「別に」






偶然歩いていたら強い共鳴反応を感じたから、と曲識は言った。

気の抜けるぐらい、淡々とした声で。






「アスだと思っていたんだ。悪くない」
「……何でそう……」






無駄に疲れた。
無駄に焦った。







「今日は随分真面目な格好をしているんだな。仕事か何かなのか?」
「……みてーなもんだっちゃ」
「似合っている、と、思う」
「そりゃどーも」
「久しぶりだな」
「ああ……もう少しお久しくしときたかったっちゃ」






そういうと曲識は首を傾げた。
表情は余り変わらない――感情が少しも読めない。






「じゃ……俺はやることがあるっちゃから」
「アス」
「何だ?」






九割まで終わった仕事を全て片付けてしまおうと、ビルの中に戻ろうとした矢先だった。
声をかけられ、思わず振り向く。








「行かないで欲しいんだが」
「はい?」







何を突然可愛らしいことを。
何だこのタイミングのよさ。否悪さ!





腕を掴まれているわけでもない。
なのに何故か、その真摯な瞳に捉えられて身体が動かな――









「ってマジで動かねえ!?」
「ごちそうさまでした」
「お前また使いやがったな!」






それにそれを言うならご愁傷様の間違いである。








「一体何がしたいっちゃ……」
「いや、僕も、一丁前なことに」
「何?」







「嫉妬しているらしい」







何かを言いかけて、開いていた唇が停止する。
それは曲識の瞳に、一縷の哀のようなものを見たからだった。




「……お前。ここに来たのは本当に偶然だっちゃか」
「さあ、どうだろう」








嘯いているような口調だけれど、その真意はどうにもわからない。







「じゃあ行こうか、アス」
「……本当、かなわねーっちゃ」
「それは願いがか? それとも勝てないという意味なのか?」
「知らん」
「ふうん」










悪くない、と呟いて、曲識は僅かに機嫌を良くしたようだった。